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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ 續がんす横丁 (四十九)西地方町(その3)宮島杓子の創案者誓真②

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 誓真が大工町の自宅にいたころ、ある晩一人の婦人が子供の着物を持って店先に現れ、この着物と白米を取り換えて呉れと言う。そこで着物を手に取りあげて見ると、まだ人の温味が感じられた。そこで誓真はこの着物を持って来た女に、何故にこの着物を白米に換えるのかとその次第をたずねた。

 すると女は「私のところには明朝たく米がないために、子供が寝ているうちにその着物を剝いで、一時の急を凌(しの)ごうと思うからこの着物を受取って呉れ」と言った。この悲惨の実情を聞いた彼は、急に世の味気なさを感じ、フン然として厳島に渡り、光明院の了単和尚の室に入って剃髪(ていはつ)したという。

 その後、苦練の修行をつづけて神泉寺に住んだが、彼は厳島が狭く人口が多いために生活苦をつづけている実情を知り、考えるところから山林に入って木を伐り、この木を削って杓子製造の法を島民に教えて、衣食の方法を伝えた。現在宮島杓子が全国に行き渡っているのは誓真の発意と彫刻による賜物(たまもの)であった。

 また誓真は島内では飲用水が少ないために、これはと思う所に井戸を掘り、道路を開いて公共のために力を尽したために、藩主から表彰されたという。

 ところが誓真は寛政十二(1800)年八月二日、突然広島の実家に帰り、家人を集めて「自分の生命はわずか数日しか保てないであろう」と、永別の挨拶(あいさつ)を繰り返し、病みついてより六日目に入寂したという。家人たちは驚いて神泉寺に、誓真の訃報を伝えると、果たして寺の大きな箱の中には彼の葬儀用の道具一切が納められていたという。

 この連載は、1953(昭和28)年7月から9月にかけて中国新聞夕刊に掲載した「続がんす横丁」(第1部)の復刻です。旧漢字は新漢字とし、読みにくい箇所にルビを付けました。表現は原則として当時のままとしています。

(2021年8月29日中国新聞セレクト掲載)

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