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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ 續がんす横丁 (四十九)西地方町(その3)宮島杓子の創案者誓真③

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 明治四十三年六月に重田定一氏が書いた「厳島誌」の一三四ページには「神泉寺跡」の項に「僧誓真と飯杓子」として次のように書かれている。

 「もと天台宗にて天文のころより浄土宗となりたりとぞ。俗に時寺(ときでら)といいしは、時刻を報じたる故なり。この寺の番僧に誓真というものありて、佛具、木魚などを作れり。厳島名産のしゃく子もその創めたる所という。誓真は廣島の人、厳島に來りて僧となりこの寺に住し、托鉢(たくはつ)して得たる米銭を投じて、路を開き、井戸を穿ち島民を利せること少なからず、寛政三(1791)年廣島藩の賞賜あり十二年に至りて没せり。今も誓真井戸の名、所々に在りとぞ」

 昭和十四年九月に槇原謙一氏が発行した「御土史跡」のうちには「寛政年間にこの寺の番僧に誓真という人がいた。伊予の城主村上頼冬の子孫で広島大工町に住んで後、厳島に来て坊さんに成った。毎日托鉢しては米や銭を集めそれで井戸を掘り、住民の飲料にし、また山に行って木を伐って来て盆茶具、盃、しゃくしの類を作り、これを住民に教えて参詣者の土産物とした。誓真厳島に住むこと四十年、寛政十二年八月三日突然広島の実家に帰り、六日後に死んだ時六十五(異説には五十九歳)。墓は広島市西地方町浄国寺にある高さ三尺三段より成り、蓮花の実形表面に『実誉至誠誓真大徳』とある。大野村赤崎光明院の墓地に分営がある。島の人はその徳に感じ神泉寺跡に碑を建て永くその徳を伝えている」と書かれている。

 この連載は、1953(昭和28)年7月から9月にかけて中国新聞夕刊に掲載した「続がんす横丁」(第1部)の復刻です。旧漢字は新漢字とし、読みにくい箇所にルビを付けました。表現は原則として当時のままとしています。

(2021年9月5日中国新聞セレクト掲載)

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