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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ 續がんす横丁 (五十)西地方町(その4)宮島杓子の創案者誓真④

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 昭和二十五年十月、広島陸運局から発行した「いつくしま」(編集者小松茂美氏)の73ページ「神泉寺跡」によると、光明院の隣にも神泉寺という寺があった。天台宗の寺で祐光の開基と伝えているが、天文年中に堪阿が浄土宗に改めたということである。むかしはここで太鼓を打ってときを報じていたので「時寺」といっていたころもある。

 宮島杓子で有名な誓真が、かつて住んでいたという寺で境内の一隅にその徳をたたえる石碑が建っている。「棚守房顕日記」によると、壇の浦で安徳天皇を抱き奉って入水したという、二位の尼(清盛の妻)の死ガイが有の浦海岸に漂着したと伝えられ、そこで阿弥陀寺を建てたといわれる。この神泉寺はその阿弥陀寺に相当するといわれている。

 もっともあの時期にはこの寺は阿弥陀堂ともよばれていたようである。大正年間には付近で、宝剣および曲玉を発掘したといわれている。古老の話によると、宝剣は京都地方の道具屋に売却せられ、当時平家の宝刀小烏丸ににたものとして世の中を騒がしたということである。

 また82ページ「杓子」によると、シャクシと言えばすぐに、ああ宮島かと「安芸の宮島」と同意義語に使われるほど知れわたっている。寛政年間(1789~1801年)のころ、厳島神泉寺の番僧誓真によってはじめて作られたもので、琵琶の形から着想した「飯杓子」を作り、庶民たちに教えたのが起こりとされている。

 この連載は、1953(昭和28)年7月から9月にかけて中国新聞夕刊に掲載した「続がんす横丁」(第1部)の復刻です。旧漢字は新漢字とし、読みにくい箇所にルビを付けました。表現は原則として当時のままとしています。

(2021年9月12日中国新聞セレクト掲載)

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