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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ 續がんす横丁 (五十)西地方町(その4)宮島杓子の創案者誓真⑥

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 なお「芸州厳島図会」巻の二のうち、三十一項には「神泉寺」の図があり、三十三の項には「二位法尼肖像、尼公は平相国の室、建礼門院の母公、安徳帝の外祖母なり、神泉寺にその像を安置する縁故は本文に詳なり」とあり、その下には「二位法尼肖像」が写されており、別行には「長九寸七分(約29センチ)幅七寸(約21センチ)全身金泥朱漆ヲモッテコレヲ彩レリ」とある。

 次のページには「本尊阿弥陀座像御長三尺定期の作、脇仕不動、御長三尺弘法大師の作、毘沙門御長不動に松なし、智証大師の作、中将姫像、二位法尼像、ともに堂内に安置せり、護摩堂。当時開基は祐光上人なり。ただし開基の年月を詳にせず。房顕記にいわく寿永のとし平家西海に淪没せしとき、二位禅尼のかばね有浦に漂い来りぬ。この故に阿弥陀堂を建立一道場を開けりとあり。当時一に阿弥陀寺とよぶ二位法尼の像を安すれば、則(すなわ)ち寿永の建立なること明らかにし、そのもとは宗旨天台なりしを天文のころ堪阿上人中興して今の宗に改めたりといふ」(因みに厳島絵図は天保十三年正月の発行である)とある。

 また誓真のことは、四国で次のようにも言い伝えられている。誓真は宮島杓子の考案者であるが、今治市では浄土宗の高僧と言われる。彼は今治の墓の中で生まれ、今治で往生した僧である。伝説では幽霊(誓真の亡母)が近くの駄菓子店から飴(あめ)を買って来て、墓の中で生まれた誓真を育てたという。

 なお宮島杓子については、そのかみ山県郡戸河内村横川に毛利氏の落武者がたどりつき、この山から木を切って杓子をつくり、これを宮島の土産物店に送って生活のしろにしたという異説もあったことをお伝えして、西地方町浄国寺に眠る宮島杓子の恩人、僧誓真のあれこれを書きつづった次第である。

 この連載は、1953(昭和28)年7月から9月にかけて中国新聞夕刊に掲載した「続がんす横丁」(第1部)の復刻です。旧漢字は新漢字とし、読みにくい箇所にルビを付けました。表現は原則として当時のままとしています。

(2021年9月26日中国新聞セレクト掲載)

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