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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ 續がんす横丁 (五十一)西地方町(その5)銅蟲歴代と木鶏翁①

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 浄国寺の墓地には、銅蟲歴代の墓もある。銅蟲細工は広島の特産である。

 元和年間、浅野長晟が紀州から広島入りをした時、藩主に随いて来た細工師佐々木清氏は号を銅蟲と言って、薄銅を叩いていろいろな器具を製造していた。銅蟲は家を鷹匠町に構えて藩主から五人扶持をもらったという。これが広島銅蟲細工の元祖で、後の名を佐々木伝兵衛といって、現在も元祖の墓が墓地入口の近くにある。

 慶安元(1648)年、二葉山に東照宮が出来あがったとき、佐々木氏から「尾長山」と書いた銅蟲額が奉納されて、長い間入口にあった石の大鳥居に掲げてあったが、惜しいことには明治以降人手に渡ったとも言い伝えられている。

 佐々木の姓を六代目から須藤と改めて、長年左官町に家を貰(もら)って広島藩の御用を勤めた。この頃から銅蟲は一般に珍重されて、同業者も現れて藩内に普及したもので、元祖佐々木伝兵衛の墓が保存されている。

 元祖の名は清、号は銅蟲と言うが、この墓地には初代伝兵衛以後十代目寿助まで歴代の墓がある。また初代の墓に並んで須藤伝右衛門の墓もあるが、この墓は六代目銅蟲伝右衛門に当たり彼は歴代中でもその妙技とうたわれたもので、彼の代に佐々木姓を須藤姓に改めたものである。

 須藤氏の子孫は昭和初期、中島本町に店を張って数々の作品を元安川河畔の産業奨励館にも陳列していた。当時の館長峰松真三郎氏は、この由緒ある銅蟲細工には関心をもって機会あるごとに面倒を見て、各地の産業博覧会には広島県の特産品として出品を奨励したものである。中島本町にあった銅蟲細工の店は終戦後八丁堀界隈(かいわい)の電車道に移転したはずである。

 この連載は、1953(昭和28)年7月から9月にかけて中国新聞夕刊に掲載した「続がんす横丁」(第1部)の復刻です。旧漢字は新漢字とし、読みにくい箇所にルビを付けました。表現は原則として当時のままとしています。

(2021年10月3日中国新聞セレクト掲載)

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