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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ 續がんす横丁 (五十一)西地方町(その5)銅蟲歴代と木鶏翁②

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 画家中井泰嶺の墓も浄国寺の境内にある。彼は長州の生まれで、別の号を香遠とも言った。もともと四条派の絵を景文に学んで、初めは尾道に住んでいたが、中国地方では指折りの画家と言われた。彼は人物画が最も得意で、その画筆は温雅なりという評があって、慶応元(1865)年七月十四日に亡くなった。

 その流れを汲(く)む画家には、明治末期平塚町に住んでいた里見雲嶺氏があり、その弟子の林半嶺氏は鉄砲屋町に住んで、二人とも宮島大鳥居の絵を得意としたもので、広島県美術協会創立以来おなじみの日本画家でたくさんの作品を残している。

 次に銅蟲一族の墓と並んでいるのは「木鶏翁の墓」である。この木鶏翁については、芸備日日新聞に掲載された記事があるのでそれを引用するとしよう。

 塚本町に宮島という薬店があった。いまでこそ(大正三年ごろの話である)店は小さいが、最近までは同町本通りの商業銀行の並びに、立派な店構えをして「野上屋」と言えば、だれ知らぬ者が無いという廣島一流の紳商で、塚本町での名物店であった。

 しかも町内では指折りの旧家で、ことに「木鶏」「拙鳩」という学者を出したという由緒のある家柄であった。

 木鶏は兄で拙鳩は弟である。早くから父母を失い、一時は家運が非常に衰えたが、兄弟の間柄はなかなかにむつまじかった。兄弟ともに勤倹質素に努めたため、数年にして家運を挽回したという。

 この連載は、1953(昭和28)年7月から9月にかけて中国新聞夕刊に掲載した「続がんす横丁」(第1部)の復刻です。旧漢字は新漢字とし、読みにくい箇所にルビを付けました。表現は原則として当時のままとしています。

(2021年10月10日中国新聞セレクト掲載)

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