×

連載・特集

「がんす横丁」シリーズ 續がんす横丁 (五十一)西地方町(その5)銅蟲歴代と木鶏翁③

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 木鶏は頼山陽時代の人で、山陽とは同年配であった。とくに親密で、かつて江戸へ上る時、道中の途中頼山陽先生が京都まで迎えに来たというほどで、人一倍剛腹な彼は、山陽先生から、いつも兄として交わられたというから、彼はなかなかの偉い人物であったらしい。当時は塚本町にあった薬店の主人に過ぎなかったが、世間からは木鶏先生として尊敬された名物男であった。

 拙鳩は兄の木鶏に子どもがなかったために、後年にその業を継いだ。元来、兄弟共に文学趣味があったが、それでも家業には精励し、しかも質素を守って人の模範となったくらいの人物であるから、家産は益々(ますます)裕福であったという。もとより一介の商売人ではあったが、彼らの友人には学者が多く、お互に往来して聖賢の道を講じ合ったという。

 とくに堺に塾を開いた山口西園や吉村秋陽の人々とは親密であったから、木鶏の死後は山口先生が、拙鳩の死後は吉村先生がそれぞれ墓誌を草して、その菩提(ぼだい)寺にあたる西地方町浄国寺内に碑が建てられた。

 ちなみに木鶏は天保十四(1843)年九月二十六日に六十二歳を期して、拙鳩は文久元(1861)年二月三日七十三歳で酒のために病を得て逝かれたとある。

 兄弟共に酒を好んだらしいが、特に大酒であった拙鳩が兄よりも長命であった事を考えると、稲田九皐先生(注南画家稲田素邦氏の厳父)もさぞ得意のことであろう。木鶏、拙鳩が学者たちと交遊したという別荘がそのかみ西新町の閑静な地に選んで設けてあったと言う。

 この連載は、1953(昭和28)年7月から9月にかけて中国新聞夕刊に掲載した「続がんす横丁」(第1部)の復刻です。旧漢字は新漢字とし、読みにくい箇所にルビを付けました。表現は原則として当時のままとしています。

(2021年10月17日中国新聞セレクト掲載)

年別アーカイブ