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社説・コラム

『想』 有田順一(ありた・じゅんいち) シベリアに咲く花

 凍土の合間から小さな花が芽吹く。すると次の瞬間、大地は赤い花一色に染まっていた。

 先の見えない収容所生活を送っていた画家宮崎進(みやざき・しん)には、巡り来る春が一筋の希望となったのだろう。

 1922年、山口県徳山町(現周南市)に生まれた。日本美術学校卒業後の42年に応召し、ソ満国境守備隊に配属された。終戦後、ソ連の捕虜となり4年間のシベリア抑留を経て帰還。光風会、日展で力をつけ、67年、「見世物(みせもの)芸人」で具象画の芥川賞ともいわれた安井賞を受賞、地歩を固めた。

 だが数年後には、その約束された場所から逃げ出しパリへと向かった。

 戦争とは、人間とは、そして画家として何をすべきか…。考える時間が必要だった。

 帰国後は現代美術の要素も取り入れ、光や色を構成的に見せる抽象的な表現へと変わった。

 早くから人知れず抑留体験も描いていた。どう展開すればいいのか。模索の日々は続いた。

 80年後半にはドンゴロス(麻袋)が画面上に登場した。

 「抑留の記憶を託せるのはこれしかない」。収容所では穀物の保管や運搬に使い、作業場では土嚢(どのう)にもなった。ソ連兵から絵を頼まれ画布として使ったこともある。うってつけの画材だった。

 90年代に入り、このシベリアシリーズが、画業の中心になった。鎮魂の思いは平面だけにとどまらず立体にまで拡大し次第に大型化していった。

 そして2004年のサンパウロ・ビエンナーレでは、世界へ向けて「シベリアの声」を発表、国際的にも評価された。メインを飾ったのは、シベリアの春を表現した「花咲く大地」だった。赤が全面を覆う大作だ。

 それは抑留中の希望であり、さらには生きる喜びにまで行き着いた魂の結晶のようである。

 不条理な体験をし、これだけ、力強く美しく明日を信じて生きた画家がいただろうか。宮崎が逝って3年余り、来年は生誕100年になる。コロナ禍の今、ふと、そう思った。(周南市美術博物館館長)

(2021年8月29日中国新聞セレクト掲載)

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