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連載・特集

ヒロシマ胎動 第1部 戦場のイラク <5> 被爆地から

似た体験 共感と期待

 調査団の森滝春子さん(64)=広島市佐伯区=が、どうしても会いたい人がいた。イラク南部の都市バスラで、がん患者の治療にあたるジャワッド・アル・アリ医師(59)。彼は昨年十二月、広島市を訪れ、湾岸戦争(一九九一年)で使われた劣化ウラン弾の被害の実情を報告していた。

 バスラ入りして、やっと連絡が取れたアリ医師は、ホテルで迎えてくれた。だが、半年ぶりの再会を喜ぶ笑顔は、次第に消えていった。

 「戦時中より治安が悪くなっている。最近も病院が襲われ、患者が二人殺された。誘拐事件もはびこっている。私にも今日、脅迫状が届いたばかりなんだ」

 劣化ウラン弾の健康影響を調べるため、調査団が患者の尿のサンプル採取に協力を求めると、快く応じた。「今も子どもたちは次々死んでいる。劣化ウラン弾との因果関係を明らかにしたい」。アリ医師は、調査結果に期待を寄せた。

悪性腫瘍8倍

 もう一人、劣化ウラン弾と子どもたちの病気との因果関係を心配する医師がいた。バスラ産科小児病院のジョナン・ハッサン医師(47)。彼女は、バスラ近辺の十五歳以下の悪性腫瘍(しゅよう)の発症状況を説明する。

 九〇年に年間十九人だったのが、九一年の湾岸戦争後に増加し、二〇〇二年には約八倍の百六十人になった。過半数の八十五人が白血病という。

 イラン・イラク戦争(八〇―八八年)後は、こうした傾向は見られなかった。ハッサン医師は力を込めた。「湾岸戦争の影響は明らか。被爆後のヒロシマと似ていませんか」

連携の道探る

 今回、調査団の目的の一つは、現地の医師たちとの連携の道を探ることだった。被害解明には長期的な疫学調査が欠かせず、それには、現場の力が必要だからだ。

 原爆を投下した米国は被爆地に戦後すぐ、原爆傷害調査委員会(ABCC、現放射線影響研究所)を設立した。森滝さんは言う。「ABCCは被爆者を調査しても治療してくれなかった。それを知っているからこそ私たちは、現地の人が調査、治療できる体制づくりに協力しなければならない」

 病院をめぐり、医師や患者と会った。そのたびに森滝さんは、謝罪を繰り返した。ヒロシマは核兵器廃絶と平和を唱えてきたのに、イラク戦争は阻止できず、その結果として「放射能兵器」劣化ウラン弾が、イラクの人たちを傷つけたからだ。

 だが、返ってきた言葉の多くは、被爆者への共感と、復興を果たしたヒロシマへの期待があふれていた。「イラクの人たちは、ヒロシマを自分たちに重ね合わせていた」と森滝さんは振り返る。

 調査団は今回、十三カ所の土壌と七人分の尿を持ち帰り、広島大原爆放射線医科学研究所(原医研)に分析を託した。東京の市民団体などと連携し、八月六日の被爆地に、アリ、ハッサン両医師を招く計画も進める。

 劣化ウラン弾の廃絶とイラク復興の支援。ヒロシマにまた、新たな使命が加わった。(城戸収) =第一部おわり

(了)

(2003年7月16日朝刊掲載)

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