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連載・特集

ヒロシマ胎動 第3部 被爆地の使命 <1> 老いてなお

使用許さぬ 今こそ結集

 ステージで客席で腕を組み、しわがれた声を張り上げた。「ああ許すまじ原爆を三度(みたび)許すまじ原爆を」。一人ひとりの歌声はか細くとも、四百人が集えば、ずしりと重い。

 五日、広島市中区の広島県民文化センターで開いた「ヒバクシャの集い」。大合唱の余韻のうちに下りた幕の内側で、集いの発起人たちは涙していた。

平均71・5歳

 組織の違いを超え、まとまった人数の被爆者が一堂に会したのは、一九九四年三月に被爆者援護法の制定を願って開いた千五百人規模の決起集会以来だからだ。

 それから九年。当時の集会を率いたリーダーたちで、鬼籍に入った人が相次ぐ。被爆者の平均年齢は今、七一・五歳を数える。

 今回、約二十人の発起人たちは、そうした現実に直面した。誘いの声をかけて近所を回ると、参加したくても動けないとこぼす被爆者が圧倒的に多かった。当日、周囲の支えで席に着く姿も目立った。発起人自身も集いの前後に、病に伏した人が少なからずいる。

 その一方で、集いの入り口で被爆者健康手帳を示し、「仲間に入れてもらえるか」と尋ねる人もいた。

 世界の「空気」が被爆者を駆り立てた。発起人の一人、広島県原爆被爆教職員の会副会長の有田穣さん(75)はそう確信している。米中枢同時テロ、アフガニスタン空爆、イラク戦争…。二十一世紀を迎えてからも世界は、核兵器使用の危うさと隣り合わせが続く。

 有田さんはいら立たしそうに続ける。「ヒロシマの悲劇は教訓にならず、相変わらず核兵器の威力が注目されている。つらい」。被爆者として及ばなさを感じるとも言う。

 舟入幸町(現中区)の自宅で被爆した。熱風にあおられ、川へと逃げた。阿鼻(あび)叫喚の中を上流から死体が流れてきた。

 その原体験とともに脳裏に焼きついているのは、空襲の心配がなくなって部屋の電球を覆った黒い布を外した日。「本当に明るかった。戦争がない素晴らしさとは、これなのか」。戦後、教職の道に進み、子どもたちにそう語り継いできた。

 集いには、その教えを受けた京都府宇治市の被爆者米沢鉄志さん(69)が駆け付けた。「核と人類は共存できない」。ステージで声を振り絞った。

滞る「一筆」

 「被爆者の思いを一つにできた」と安芸区の三刀屋徹さん(77)。「しかし、遠ぼえだけではだめだ。今の流れをどうすれば変えられるのか、考えんといかん」

 集いは、ブッシュ米大統領が原爆投下の地を訪れ、被爆者と直接対話するよう求めた。発起人たちは、ホワイトハウスあてに「一筆」を送って来日を要請しようと客席の被爆者たちに提起した。

 しかし、事務局に届いたのはまだ十数件。「今こそ」の時期に「老い」が重なる。

    ◇

 被爆地の長年の訴えをあざ笑うかのように、この世界に戦火は消えず、新たな核拡散の懸念すら増す。不穏さが続く世界情勢に、被爆地は今、何をどう訴えていくのか。足もとの課題を見つめ、二十一世紀の使命を考える。

(2003年7月27日朝刊掲載)

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