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連載・特集

ヒロシマ胎動 第3部 被爆地の使命 <2> 距離

「個人」が結集 触媒役に

 岡山と広島の県境をまたぐ国道2号。前日に日本原水協などのメンバーが歩いた道を、二十七日は原水禁国民会議などが通り過ぎた。同じ広島市中区の平和記念公園を目指す「禁」「協」それぞれの平和行進。踏みしめる歩みは今年も、一日違いの「分裂」を続けた。

 原水爆禁止という目標は同じだ。世界平和を訴える点でも違いはない、しかし、旧ソ連の核実験を認めるかどうかを機に、政党色も絡んでそれまでの日本原水協が二つに分かれて以来、今年で四十年になる。

 二〇〇一年九月十一日の米中枢同時テロ以降も、互いの「距離感」を象徴する出来事が続く。例えば、同じ年の十月、国会で成立したテロ対策特別措置法への抗議の座り込み。

 広島市中区の平和記念公園にある原爆慰霊碑前の石段に、禁系と協系が数メートル離れて陣取った。マイクを貸し借りし、演説などで邪魔しないよう気を使い合う。だが、座り込みが「統一」され、溝が埋まる気配は最後までなかった。

連携を視野に

 両者は統一をめぐり議論を繰り返してきた。

 「分裂で求心力を失ったとも言われるが、統一すれば力になるというものでもない」。広島県原水禁の坂本健事務局長はむしろ、市民も交えた運動の「連携」を視野に入れる。イラク戦争には被爆地でも、若者たちの反対運動が目立った。それらとの共同歩調だ。

 広島県原水協の松本真事務局長も「同じ主張の運動団体だけで取り組む方が確かに楽だ。でも現実的な効果を上げるには、市民との連携が必要」とやはり、原水爆禁止運動の原点である大衆運動を強調する。

意識に濃淡も

 両者の「接着剤」にとの期待も担い、二年前に誕生した組織がある。「核兵器廃絶をめざすヒロシマの会」。平和運動に携わる人たちが、個人の立場で結集しようと、禁と協のメンバーも設立にかかわった。

 会のメンバーは昨年春、米国でテロ遺族たちと交流した。今年春は六千人規模の人文字集会などを通じて、被爆地の運動を引っ張ってきた。

 今年五月の会の総会。これまで運動の表舞台に出てこなかった二十、三十歳代の若手も加え、約三十人の運営委員のうち五人を入れ替えた。しかし、その名簿には名前の横に、それぞれの所属団体が記されていた。

 「メンバーに意識の濃淡があり、完全な個人参加になっていない。一方、大掛かりなイベントをするには、それぞれの所属組織に頼らざるを得ない面もある」。会の共同代表、岡本三夫広島修道大教授は複雑な事情を打ち明ける。

 「結成時の『大志』はまだ途上。だが、この会は人文字集会に一定の役割を果たし、被爆地でイラク戦争反対の運動が盛り上がる土台になった」とも話す。若者たち市民を交えて「触媒」役を果たす考えだ。

(2003年7月28日中国新聞セレクト掲載)

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