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社説・コラム

[歩く 聞く 考える] 論説委員 石丸賢 談志とアンネ・フランク

公開念頭に日記残す意味は

 「落語界の風雲児」と呼ばれた立川談志さんがこの世を去り、今月21日で丸10年が過ぎた。

 今月、ファンならずとも興味をそそられそうな一冊が出版された。「談志の日記1953 17歳の青春」(dZERO刊)。後の「人間国宝」五代目柳家小さんに弟子入りした翌年、前座修業の傍ら、つけていた日記帳の全文だという。

 師匠にはその後、真打ち昇進制度を巡る大げんかの末に破門される。落語協会を飛び出すと、自ら家元を名乗って立川流を構えた。

 日記のそこかしこにも、はや不遜なまでの自負心が片りんをのぞかせる。〈前座の噺(はなし)のけい古(こ)会。やはり僕が一番うまい〉。師匠をつかまえて、〈小さんに小遣(こづかい)をもらう〉と呼び捨てである。

 その一方で、意外な純真さもうかがわせる。〈僕には、夢を追うのみで、若さを楽しむ資格がないのであろうか〉〈大きくなりたくない。(略)あせりが出る〉

 何より驚くのは、喉頭がんで他界するまで60年以上つづった日記を「いずれ本になるだろう」と編集者に渡していたことである。気位の高さは先刻承知でも、日記までさらす覚悟だったとは知らなかった。

 もう一人、人の目に触れる日を望み、思春期に日記を書きためていた少女を知っている。

 アンネ・フランクである。

 第2次大戦のさなか、ナチスによるユダヤ人迫害で強いられたオランダでの隠れ家生活の日々を13歳の誕生日から2年余りつづった。戦後、各国語に翻訳され、舞台や映画の原作にもなった。

 日記の公開をアンネが意識するきっかけは、ナチスの手から英国に逃れていた亡命オランダ政府の教育相による呼び掛けだった。1944年3月29日の項にある。〈ロンドンからのオランダ語放送で(略)この戦争が終わったら、戦時ちゅうの国民の日記や手紙などを集めて、集大成すべきだというんです〉(「アンネの日記 増補新訂版」文春文庫)

 〈わたしはなんのために勉強しているのか、目的を見失ったままでいます〉。先の見えぬ孤独や焦りのトンネルに置かれても、希望を捨てなかった。〈すべての不自由をユーモアまじりに描いてきたつもり(略)ほかの少女たちとは異なった生涯を送ってみせる〉

 アンネは、作家を夢見ていた。そしてもう一つ、志していたのがジャーナリストだった。

 ジャーナリストは「日記をつける人」でもあると定義していたのは哲学者の故鶴見俊輔さんである。日記も意味するジャーナルから、そんな解釈を取ったようだ。

 書いた日記を大っぴらにし、同時代を生きる人々の反応を確かめる。そうすることで「みんなの日記」となる道を開いていく。ジャーナリズムの源流とも受け取れる。

 その意味では人一倍、時流に敏感であろうとし、日記を書き続けた談志さんもジャーナリスティックな感覚の持ち主だったといえよう。

 アンネをはじめ、オランダ教育相の呼び掛けに応じた人々は、後の世のために歴史の一こまとして残す値打ちを信じていたに違いない。思いは実り、「アンネの日記」は2009年、国連教育科学文化機関(ユネスコ)によって「世界記憶遺産」の登録を受ける。つまり、「人類みんなの日記」となったのである。

 この2年、洋の東西を問わず、思いがけぬ新型コロナウイルス禍に見舞われている。出口も定かでない、トンネルのような暗闇…。アンネの息苦しさとも、一脈相通じるものがないだろうか。

 何を感じ、考えているのか。国や地域を超え、いち早く翻訳出版されたのは日記だった。イタリア発の「コロナの時代の僕ら」(早川書房)しかり、中国発の「武漢日記」(河出書房新社)しかり。

 100年に1度ともいわれる危機の渦中で、何に目を向け、どう書き残していくか。本紙もまた、「社会の日記」にほかならない。

(2021年11月25日朝刊掲載)

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