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連載・特集

近代発 見果てぬ民主Ⅰ <4> 国是の空文化

発布2ヵ月余 東北戦争に

 東北の関門、福島県白河市を訪れた3年前は戊辰(ぼしん)戦争150年だった。白河城争奪で千人余りが戦死した地に東軍と西軍(新政府軍)の墓地や慰霊碑がある。地元民が分け隔てなく香華を手向けてきた。

 会津など東北諸藩や新撰(しんせん)組からなる東軍と、薩長や大垣藩など西軍との東北戦争が勃発したのは慶応4(1868)年の閏(うるう)4月25日。5月1日に西軍が新式銃で圧勝した。

 万機(全て)を公論(公共の議論)で決めるという開明的で平和主義的な五箇条御誓文は3月14日の発布。その国是は暦調節の閏4月を挟む2カ月余で空文化された。

 御誓文が出た後に江戸城は無血開城、徳川慶喜は謹慎し、会津藩の処分が課題となる。奥羽鎮撫(ちんぶ)使から会津追討を命じられた東北諸藩は、寛大な処分を嘆願した。長州藩の新政府高官でも、広沢真臣(さねおみ)は避戦を模索し、米沢藩士に根回しを頼んだ。

 御誓文起草者の木戸孝允(たかよし)は主戦派だった。情勢緊迫の閏4月、「大政御一新の基本を立てるために戦争以上の良法はない」と岩倉具視(ともみ)らへの手紙に記した。木戸人脈の奥羽鎮撫使下参謀の世良修蔵は強硬策を押し通し、東北諸藩の怨嗟(えんさ)の的に。閏4月20日に世良が斬殺され、白河から東北全土へ戦火が広がった。

 時代は移り、廃藩置県で中央集権化がなった翌年の明治5(72)年、岩倉使節団の副使として木戸は訪米中だった。政府の朝令暮改を憤慨する木戸に、随行の久米邦武が「時代が変わっても天皇陛下が神明に誓われた文は変わるまい」と話した。

 「五箇条御誓文」と言われてもぴんとこない様子の木戸だったが、やがて「なるほどそんなことがあった」と記憶をたどった。久米に借りた五箇条の写しを一晩かけて熟読し、「将来に一つも支障のない御文面だから今後極力これを維持するに決心した」と語った。

 久米の回顧録に明治5年のいつごろかの記述はない。ワシントン到着翌日の1月22日の木戸日記に「御誓文の方向で確固たる律法を定めるべきだ」とあり、1月上-中旬のことと推測できる。(山城滋)

戊辰戦争
 慶応4/明治元年~2年の鳥羽伏見、東北、北越、箱館などでの新政府対旧幕府方の戦争の総称▽岩倉使節団 岩倉具視大使以下46人と随員、留学生が明治4年11月に出発し米国、欧州各国を6年半ばまで視察。

(2021年11月26日朝刊掲載)

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