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「あの日」1年後発行の広島第一県女新聞 追悼祈念館に復刻版寄贈

 原爆で300人を超す犠牲者を出した広島県立広島第一高等女学校(現皆実高)が被爆翌年の8月6日に発行した「広島第一県女新聞」創刊号の復刻版が、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館(広島市中区)に寄贈された。オリジナルは同窓会に1点あるだけ。祈念館は「被爆後の学校の様子が分かる貴重な資料」としている。(増田咲子)

 寄贈したのは、原爆投下時に1年生だった人たちでつくる「有朋会45期追悼の会」の宍戸和子代表(81)=中区。復刻版は同級生から譲り受け、自宅で保管していた。「きちんと保存して後世に伝えてほしい」と寄贈を決めた。

 広島第一県女新聞は縦55センチ、横39センチで、表裏2ページ。雑誌部の生徒が執筆し、全校生徒に配布したという。1945年8月25日に学校の焼け跡で行った慰霊祭など被爆から1年間の日誌や、「あの日」と題した生徒の被爆体験記を掲載。「第一県女は着実に新生の第一歩を踏み出した」など復興に向けた生徒の思いも記されている。

 同窓会「皆実有朋会」によると、復刻版は96年ごろ、同窓会が作製し、卒業生ら関係者に配ったとみられる。オリジナルは、昨年8月に当時の在校生から贈られた1点だけという。

 学校新聞は、48年に校名が有朋高に変わるまで、同じ題字で14号まで発行された。

 追悼祈念館は、希望があれば誰でも閲覧できるようにしている。

広島県立広島第一高等女学校
 1901年、広島県立広島高等女学校として、広島市下中町(現中区中町)に設立され、41年に校名を改称した。今の小学校に当たる国民学校初等科を終えた12~16歳が通っていた。45年8月6日の原爆投下で、専攻科を含む生徒281人、教職員20人が死亡、校舎は全焼した。1年生の犠牲者が特に多く、現在の中区小網町付近で建物疎開作業をしていた223人は全滅した。戦後の学制改革で48年に有朋高となり、さらに49年、皆実高(南区)となった。

(2013年9月2日朝刊掲載)

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