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連載・特集

広島世界平和ミッション 南アフリカ編 虹の彼方に <1> 初舞台

反核の集いで被爆証言

 広島国際文化財団主催の被爆六十周年プロジェクト「広島世界平和ミッション」の第一陣が、南アフリカ共和国、イランでの平和交流を終えて帰国した。被爆者ら市民参加の五人は、行く先々で原爆被害の実態を伝えるとともに、交流を通じて多くを学んだ。最初の訪問地、南アは核兵器廃絶に踏み切った世界で唯一の国である。アパルトヘイト(人種隔離政策)を撤廃し、民主化を実現して十年。ネルソン・マンデラ前大統領が唱えた人種差別のない「虹の国」の建設を目指す。参加者とともに、新生南アの光と陰に触れた。(岡田浩一、写真も)

 広島世界平和ミッション第一陣の参加者は次の通り(敬称略)
 被爆者 寺本貴司(69)=広島県大野町▽薬剤師 津谷静子(49)=広島市東区▽大学助教授 藤本義彦(39)=広島市西区▽専門学校生 小山顕(25)=広島市東区▽大学4年 荊尾遥(21)=東京都小平市

 三月二十七日正午すぎ。何とも体が重い。疲れで空腹感も消えた。広島からヨハネスブルクまで四十八時間。霧のため経由地ドバイ(アラブ首長国連邦)で一日足止めをくったためだ。

 到着日は休息に、との計画は崩れた。ホテルに着いてシャワーを浴びるのがやっと。仮眠も昼食も抜きで、借り上げたワゴン車に乗り込んだ。七十キロ北の首都プレトリアで予定していた市民交流に参加するためである。

  市民と共催■

 約一時間後、街の中心部にある公園に着いた。中央に大きな銅像がある。その人物像の広い台座をステージに見たてて、黒人の若者十数人がリズミカルに合唱していた。地元の反核・環境団体「アースライフ」のメンバーだ。平和ミッションと共同で開く街頭キャンペーンはひと足早く始まっていた。

 平和ミッションの一行が到着すると早速、ステージに誘われた。被爆者の寺本貴司さん(69)が被爆の実態を伝える写真ポスターの前に立ち、証言を始めた。

 広島市安佐北区出身の大学四年、荊尾(かたらお)遥さん(21)が英訳。さらにアースライフ代表のマシーレ・パラネさん(36)が現地のソト語に直した。

 南半球は初秋である。しかし、肌がひりひりするほど日差しが強い。寺本さんは緊張からか、証言が途切れがち。通訳二人を介すために一層時間がかかる。四十五分近くに及んだが、百人近い聴衆は額に汗を浮かべてじっと聞き入った。

 寺本さんは「子どもたちの上に二度と広島、長崎の悲劇を繰り返さないよう手を結ぼう」と締めくくった。被爆当時十歳。同じ自宅で被爆した母を九日後に亡くした。体中に残る傷あとのため「ピカ」とあだ名をつけられた時期もある。

 「体験を語ってくれてありがとう。みんなも核兵器の本当の怖さがよく分かっただろう」と、パラネさんは会場に呼び掛けた。

 危険な仕事■

 核関連施設は黒人が多く住む地域のそばにあった。パラネさんは「原子力発電所では放射線の知識を十分に知らされないまま、黒人たちは下請けの危険な仕事をさせられている。ウラン鉱山の労働者も同じ境遇だ」と語気を強めた。アパルトヘイトがなくなった今も危険な仕事は黒人に押し付けられているというのだ。

 会場に来た人々の大半は、プレトリア近郊の核関連施設や、かつての核兵器製造工場の周辺に住んでいる。

 南アの市民運動は人権問題がメーンだ。自国が核兵器を保有していたことすら知らない人が多い。アースライフのような団体は少数派。パラネさんは「広島との出会いをきっかけに、核関連施設周辺住民の健康調査を手掛けたい」と希望を打ち明けた。

(2004年5月10日朝刊掲載)

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