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連載・特集

広島世界平和ミッション 南アフリカ編―核廃絶への歩み

 南アフリカ共和国は、豊富なウラン資源を背景に、第二次世界大戦後間もなく原子力研究に乗り出した。米ソ冷戦下の一九七〇年代、周辺諸国でのソ連の影響が強まるなか、秘密裏に核兵器の製造に着手。だが、八九年にはベルリンの壁が崩壊し、間もなくソ連邦も消滅した。周辺国での脅威が減じる一方、核開発疑惑とアパルトヘイト(人種隔離政策)への国際社会の非難は一段と強まり、南ア政府はついに九一年、すべての核兵器を放棄した。人類の悲願の一歩を実現した「先駆者」は今、スウェーデンなど六カ国とともに「新アジェンダ連合(NAC)」を結成。国連などを舞台に核軍縮・不拡散へのイニシアチブを取る。南アを訪問した広島世界平和ミッション(広島国際文化財団主催)の第一陣五人と同行記者二人は、かつての核兵器関連施設や開発に参加した物理学者らを訪ね、決断への背景と教訓を学んだ。(田城明、岡田浩一)

冷戦終焉 世紀の決断

「軍縮」「不拡散」 今や先導役 原子炉 平和利用に回帰

 オレンジ色の照明に、円筒状の研究炉「サファリ1」が浮かぶ。縦九メートル、直径六メートル。核兵器の原料となる広島型と同じウラン235は、ここから取り出された。

 首都プレトリアから西へ約三十キロ。コスモスが揺れる田園地帯を車で走り、南ア原子力公社(NECSA)のぺリンダバ核関連施設を訪れた。

 中核の研究炉は五七年に米国の支援で完成した。赤道以南での初の原子炉は、六五年に核分裂反応の臨界に達した。

 核開発は当初、鉱物資源の採掘など「平和利用」を目的に始まった。ところが、七〇年代半ばから近隣のモザンビーク、アンゴラ、ジンバブエが相次いで独立し、親ソ政権が誕生。アンゴラにはキューバ兵約五万人が駐留した。

 周辺諸国の脅威に、すでに濃縮ウラン工場から兵器レベルのウランを生産していた南アは「抑止力の保持」へと拍車をかけ、七七年に最初の原爆を完成。地下核実験場も造った。

 アパルトヘイトへの批判に加え、こうした核開発疑惑に対して、国連安全保障理事会は同年十一月、南アへの武器禁輸決議を採択。国際的な孤立のなかで、一層開発を加速させた。廃棄前、核弾頭は計六個。七個目の高濃縮ウランも準備されていた。

 しかし、フレデリク・デクラーク大統領が誕生した八九年には、東西冷戦構造は終焉(しゅうえん)を迎えていた。大統領は国際社会への復帰を目指し、アパルトヘイト撤廃と核兵器廃棄を決断した。

 ケープタウン大の紛争解決センター研究員ガイ・ラムさん(30)は「決断の理由はほかにもある」と指摘する。一つは経済情勢の悪化に伴う軍事予算の削減。さらに、廃棄を決めた時期は、人口の約80%を占める黒人への政権移譲がほぼ決まった時期と一致する。

 「黒人政権に核兵器を渡すことが不安だったようだ」とラムさん。根拠を尋ねると「九四年の民主化以前の政府書類は隠されている。核廃棄のプロセスを学び他国のケースに生かすためにも、今後も資料発掘などの調査を進めたい」と話した。

 核兵器から取り出された高濃縮ウランは、国際原子力機関(IAEA)の管理の下、ぺリンダバの敷地内に保管し、サファリ1の燃料として使用。研究炉は今も医療用や産業用などの目的のために稼働を続けている。

 「高濃縮ウランの残量は機密だが、まだたっぷりある」と案内役の研究員。NECSAのゼネラル・マネジャー、カレル・フシェー博士(64)は「特に医療分野では商業的成果を挙げている。核開発技術が平和利用に転換できることを証明できた」と誇らしげに言った。

《関連年表》

1944年 ヨハネスブルク近郊で、金発掘の副産物としてウラン鉱石を発見
  48年 原子力委員会を設置し、本格的に原子力研究に着手
  57年 国際原子力機関(IAEA)の設立メンバーとして加盟▽研究炉「サファリ1」を建設
  65年 サファリ1で臨界達成
  77年 カラハリ砂漠に核実験坑を建設▽国連安保理が南アに対して武器禁輸決議
  79年 米衛星が喜望峰沖の大西洋上で閃光(せんこう)を観測。核実験疑惑起こる。南ア政府は現在も実験を否定
  89年 核兵器の製造中止
  91年 6個の核弾頭と未完成の1個をすべて解体▽アパルトヘイト関連法を廃止▽核拡散防止条約(NPT)に加盟
  93年 デクラーク大統領が核兵器所有と完全廃棄を公式に表明
  94年 初の国民投票で黒人政権樹立。マンデラ氏が大統領に就任
  96年 アフリカ非核兵器地帯(ぺリンダバ)条約調印
  98年 南アなど計8カ国(現7カ国)で新アジェンダ連合を発足

開発に参画 フルユン博士に聞く

周辺の安定 廃棄へ道筋

 私たちは核兵器開発に長年携わった国営兵器公社アムスコーのヨハン・フルユン博士(57)に、プレトリア郊外の職場で会った。物理学者の博士は淡々と自身の体験や思いを語った。

 核開発では主として、核爆発プロセスの研究に当たった。最初は科学者としての好奇心に突き動かされていた。自分が開発にかかわった核兵器が使用されるとは、一度も思ったことはない。あくまで「抑止力」だと考えていた。

 抑止力としての戦略は三段階に分かれていた。第一はイスラエルと同様、核保有を肯定も否定もせずあいまいにしておく。第二は周辺からの軍事的脅威にさらされた場合、米国など西側諸国にこっそり保有の事実を伝え、軍事介入を求める。それが駄目なら、最後は地下核実験を実施する。

 そのため核弾頭一個は常に地下核実験場に置き、いつでも実験できるようにしていた。

 核開発にかかわり始めた翌年の一九七七年、カラハリ砂漠の地下に実験坑二本を掘った。七四年にインドが地下核実験をしたが、大きな問題にならなかったので軽くみていた。しかし、実験坑が旧ソ連の衛星に発見されると、国際的な非難が巻き起こった。

 国連安保理による自国への武器禁輸決議によって、われわれはますます孤立感を深め、核抑止力への依存を強めた。核兵器を搭載する飛行機の開発も同時に手掛けた。

 経験的に言うと、核開発能力をすでに持っている国に対する制裁措置は、かえって開発を加速させる恐れがある。北朝鮮なども同じだ。南アは東西冷戦の終結に伴って、周辺国が安定して初めて廃棄に踏み切った。周辺地域の紛争や当事国の問題をまず解決することが核兵器廃棄への近道だろう。

 核兵器工場の閉鎖に伴って二百五十人が解雇された。研究チームは公社内でも特別扱いで、家族のようだった。当時は寂しさもあったが、今は核兵器を捨てたことを喜んでいる。同僚たちも同じ気持ちだと思う。

和解の心 ヒロシマ共鳴

 核保有国から非核保有国へ―。南アフリカ共和国がたどった道は、地上から核兵器はなくならないと信じたり、あきらめたりしている世界の多くの人々に希望を与えるものである。

 南アの核保有は、白人政権のための「アパルトヘイト原爆」とも形容された。というのも、国民のための「安全保障」をうたいながら、実際には圧倒的多数の黒人が厳しい差別に苦しみ、国民としての扱いを受けていなかったからだ。

 核兵器廃棄への道は、アパルトヘイト撤廃への動きと歩調を合わせるように実現した。それは単なる偶然ではない。

 一九八九年にデクラーク大統領が就任した際、東西冷戦が終わり、周辺国を含め国際環境が大きく変わっていたことは事実である。

 だが、核廃絶に踏み切った要因はそれだけではない。より重要なのは、アパルトヘイト撤廃を求め解放運動を闘い続けてきたネルソン・マンデラ氏率いるアフリカ民族会議(ANC)との間で、アパルトヘイト法の廃止など話し合いによる合意が成立したからだ。

 黒人勢力を代表するANCは、核兵器を含む大量破壊兵器の開発・保有に早くから反対していた。全人種参加の民主的な選挙が実現すれば、ANCが政権に就くのは明白だった。デクラーク氏は国内事情からも、そして国際社会に復帰するためにも、核兵器の存在は「足かせにすぎない」と喝破したのだ。

 九四年に誕生したマンデラ政権は、世界中の大量破壊兵器の廃棄を通じて「地球的規模の平和と安全保障」を促進する政策を盛り込んだ。九九年にマンデラ氏を後継し、今年四月の総選挙で二期目の任期に入ったANC議長のターボ・ムベキ政権も核軍縮に精力的に取り組んでいる。

 ただ、過去の核開発の事実関係については未解明の部分が多い。例えば、白人政権とつながりが深かったイスラエルとの協力関係について関係者に尋ねても、明確な答えは返ってこなかった。

 デクラーク政権は核開発に伴うすべての書類を廃棄したとされる。が、ガイ・ラムさんのように書類は隠されているとして、発見に努めている学者やジャーナリストも少なくない。

 核軍縮に取り組む南アの立場は、外務省のホームページなどに詳しく紹介されている。が、それをめぐって世論を巻き込んだ議論は起きていない。核問題はなお一部の人たちの関心にとどまっているのだ。「核政策への反対がないのでやりやすくはありますが…」と、外務省の軍縮担当者は苦笑したものである。

 私たちが訪ねた大学や教会などでは平和教育に大きな関心を示した。

 広島と長崎、そして被爆国日本は、世界の人々に核戦争の悲惨を伝えることができる。南アは核兵器を廃棄することによって得たメリットについて、説得力をもって語ることができるだろう。

 さらに南アの人々には、アパルトヘイトによる歴史のわだかまりを超え、人種間の「和解」を求めようとする心が強くある。それは「報復ではなく和解を」というヒロシマの心と重なる。

 エイズをはじめ南アの現実は厳しい。だが、紛争防止や核廃絶実現に向け、私たちは多くの点で「希望」を共有できるに違いない。(田城)

(2004年5月10日朝刊掲載)

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