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連載・特集

近代発 見果てぬ民主Ⅰ <5> 立憲の模索

王権強大 ドイツ憲法モデル

 なぜ最終起草者の木戸孝允(たかよし)が五箇条御誓文を忘れかけていたのだろうか。長州を代表する立場の木戸は薩摩の大久保利通ら少数の指導者と維新後の政治を差配してきた。「万機公論ニ決ス」の精神から遠く離れた場所にいたからではないだろうか。

 明治4(1871)年7月の廃藩置県後の政府は、太政、左、右大臣と参議からなる最高決定機関の正院▽大蔵、外務など諸省の右院▽立法機関の左院-に分かれていた。実質は薩長に土肥出身を加えた政府首脳の専制支配である。木戸は参議で後に文部卿(きょう)を兼ねた。

 岩倉使節団の副使だった木戸は米国で「将来は憲法を制定して専制政治を廃しては」と多くの人に進言された。「政府と人民が共同して国政を進める公平な方法」という立憲政治が、人民の力を引き出して富強を生んでいることも実感できた。

 中央集権化の次は近代国家としての世界参入が課題となる。米国で立憲政体を将来目標に置き始めた木戸は明治5(72)年1月、御誓文を「再発見」したのである。

 木戸は米欧を訪問中に各国の憲法を調べた。長州からドイツに留学中の青木周蔵に「大日本政規」を作らせた。プロイセン(ドイツ)憲法をモデルに御誓文を政規(条文)で肉付けした85条からなる。明治6(73)年春というごく早い時期の憲法草案だった。

 議会議員は「日本人民ノ名代タルベキ」とし、知事など地方官から選ぶほか元有力大名を永世議員に想定していた。人民より選ぶのが本来の姿だが、しばらくは官選議員でいこうとの漸進主義である。

 天皇を頂点とする政体だから米仏の共和制は採れない。英国の立憲君主制は理想的でも王室と議会、国民の関係には長い歴史があり、にわかにまねできそうになかった。

 木戸らの立憲政体構想は欧米先進国と決定的に異なる点があった。下級武士が担った明治維新は革命的な変革だったが、独立戦争や市民革命で国民が権利として勝ち取った政治体制ではなかったことである。  その点、欧州で後発国のドイツの憲法は、国民の権利をある程度認めながらも王権が強大で議会権限は制限されていた。(山城滋)

青木周蔵
 1844~1914年。明治7年には大日本政規の改訂版を作成。後に駐ドイツ公使、外務大臣など歴任し、条約改正交渉に携わった。

(2021年11月27日朝刊掲載)

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