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「原爆の子」読み継がれ70年 被爆手記集

 「原爆の子 広島の少年少女のうったえ」(岩波書店)が1951年10月に出版されてから、70年が過ぎた。被爆時に幼児から10代だった105人が「あの日」とそれからの体験を6年後につづった手記集。いまなお読み継がれている。

 教育学者で自らも被爆した広島大の長田新名誉教授(1887~1961年)が、教え子らと原稿を集めた。日本国内は占領末期で、米軍が朝鮮戦争のさなかに「原子兵器」の使用に言及していた。そんな中、被害の現実や、親を失った悲しみ、生きる意思を子どもたちが記した。

 「お母ちゃんは今は中島ののうこつでん(納骨殿)にすんでおられます。毎月の六日には、私はおじいちゃんと二人してお母ちゃんにあいに行きます。でも私にはお母ちゃんのすがたがどうしても見られません」「焼跡に生えた名もない草も、生きる力を持っていた…私はこの草のように生きたい」。反響を呼び、さまざまな活動に波及した。

 長田氏は原爆で親を失った子どもを支援する「国内精神養子運動」を提唱し、窓口となる「広島子どもを守る会」を結成。本を基に、52年は新藤兼人監督の「原爆の子」、53年には日本教職員組合を中心に「ひろしま」と2本の映画が制作されるなどした。

 岩波書店によると単行本18万部、文庫版上下巻は5万部ずつ普及。英語やインドネシア語、ポーランド語などにも翻訳されている。(湯浅梨奈、金崎由美)

率直な思い 今こそ読んで 筆者の一人 早志さん

 子どもたちの手記には、率直な思いが込められている。「原爆の子きょう竹会」会長の早志百合子さん(85)=広島市安佐南区=も手記を寄せた一人だ。「出版から70年がたち被爆者が年々少なくなっている今こそ、読んでほしい」と力を込める。

 当時9歳だった早志さんは、爆心地から約1・6キロの土手町(現南区)の自宅で被爆。タンスの下敷きになり、必死になってはい出した。炎から逃れようと、熱い地面の上をはだしで走った。山のように積まれた遺体を見た、と「原爆の子」に書いている。

 被爆後はトタンで囲った小屋に住み、何カ月間も寝込んだという。髪の毛も抜け、「今日死ぬかも」と思う毎日だった。

 幟町中2年の時、被爆体験の作文を宿題に出された。気が進まないまま、思い出したくない体験を書いた。他人に読まれることになるとは知らず、「私はぜったいに戦争はいやです」と正直につづった。

 出版の翌年、子どもと支援者でつくる「原爆の子友の会」に加わった。20年後、約50人が集まって「きょう竹会」を発足させた。会員が毎年1回、近況報告をしたり、家族にも打ち明けられない話をしたりする、心のよりどころとなったという。病気などで苦しみが続く会員の半生を記録に残そうと思い立ち、2013年には37人分の体験談を集めた「『原爆の子』その後」(本の泉社)を出版した。

 今年は核兵器禁止条約が発効した。条約に賛同する人も、そうでない人もいるが早志さんは「ぜひ『原爆の子』を読んでから、核兵器を認めていいのか考えてほしい」と語る。罪のない子どもたちが無差別に傷付けられた体験の中に「人類に向けてのメッセージが書かれています」。

(2021年11月29日朝刊掲載)

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