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連載・特集

広島世界平和ミッション イラン編 ベールの向こう <1> ゴーストタウン 毒ガス弾 110人の命奪う

 南アフリカ共和国での平和交流を終えた広島世界平和ミッション(広島国際文化財団主催)の第一陣は、四月五日から十五日まで第二の訪問地イランを訪ねた。歴史や習慣が異なり、米国政府からは「悪の枢軸」呼ばわりされているイスラム国家。実態が見えにくい分、市民メンバー五人を含め不安を抱いての入国だった。が、イラン人とのひざを突き合わせての交流を通じて、知られざる中東の大国イランの素顔に出会った。(岡田浩一、写真も)

 山脈の雪化粧を背景に、少年が棒切れを振り回しながらヒツジを追う。平和ミッションの一行や通訳らを乗せた三台のタクシーは、つづら折りの山道をひたすら走った。

 首都テヘランから飛行機で一時間。ウルミエからさらに車で三時間半。イラン人が「第二のヒロシマ」と呼ぶサルダシュト市にようやく着いた。

 山腹に家々がへばりつく。人口約四万人。一帯は少数民族のクルド人が住む。イラクの国境までわずか十キロである。

 「こんな何もない町になんで毒ガス弾を投下したんかのう」。被爆者の寺本貴司さん(69)は首をひねった。一九八〇年から八八年まで続いたイラン・イラク戦争中の八七年六月二十八日、イラク機がマスタードガス爆弾七発を投下。当時の人口約一万二千人のうち数日中に百十人が死亡した。

手握り締め■

 後遺症に苦しむ被害者を支援している市民団体の会員の案内で市街地を歩くと、たちまち住民に囲まれた。人々に背中を押されるようにしながら、爆弾がさく裂したそばの民家に着いた。

 家から出てきた養鶏業者のムスタファ・アサドザデさん(39)は、紹介された寺本さんの手を握り締めたまま話し始めた。「あの日、この街はゴーストタウンになった」

 彼は当時、テヘランにいた。毒ガス攻撃の翌日に帰郷。人々は近隣の病院に運ばれ、無人の街並みだけが残っていた。

 十四歳の弟を病院で見つけた。すでに他の家族八人は亡くなっていた。顔が焼けただれた弟はしきりに家族の消息を尋ねる。「治療のために外国の病院へ移した」とうそをついた。その弟も爆撃から八日目に逝った。

 ぜんそくなど自らも毒ガスの後遺症に苦しむアサドザデさんの話に、原爆で肉親を失った寺本さんは胸が締めつけられる思いだった。「養生しんさいや」。のどの奥からやっとしぼり出した広島弁。言葉は違っても、心から思いやる響きは伝わる。アサドザデさんは何度もうなずいた。

 夕方、市役所ホールで開かれた住民との交流会。約百人が詰め掛けた会場には、毒ガス被害者を写し出した百枚余の写真が並べられていた。

 「これは姉よ」「この人は友達のお母さん」。来場者が次々と平和ミッションのメンバーに説明する。住民のほとんどが文字通り被害者か、遺族だった。

原爆と同じ■

 寺本さんは「毒ガスも原爆も住民を見境なく殺す。人間が悪魔に成り下がる怖さを示す教訓がここにもある」と憤りを隠さなかった。

 毒ガス被害の実態に触れた後、メンバーは被爆写真ポスターなどを使って原爆の被害を住民に伝えた。終えるとメへラン・ラスリ市長(35)があいさつに立った。

 「爆撃から十七年たつが、外国の市民団体や報道機関はほとんど来てくれなかった。今日は原爆の恐ろしさも知った。と同時に私たちの声が広島の人々に届いたことが非常にうれしい」

 寺本さんは広島での今後の証言活動で、サルダシュトの被害について触れるつもりである。「隠された事実を世界に伝えることが、再び悲劇を生まない第一歩」と信じるからだ。

(2004年5月30日朝刊掲載)

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