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連載・特集

広島世界平和ミッション イラン編 ベールの向こう <2> 医療支援 被爆地から「お返し」を

 「ヒロシマは世界が助けてくれた。うちらもここを見捨てちゃあいけんと思う」。薬剤師の津谷静子さん(49)は、広島世界平和ミッションの仲間に訴えた。毒ガス攻撃の被害を受けたサルダシュト市滞在二日目のことである。

 その日午前、四年前にできた化学兵器被害者の専用診療所を訪ねた。市では爆撃から十七年経った今も約五千人が呼吸不全や目、皮膚などの後遺症に苦しむ。こうした患者を医師一人を含む五人が、一日平均二十人診察している。

 診療所を建設し、運営に当たるのは、政府とは別組織で、最高指導者アリ・ハメネイ師が直轄する「貧困者と戦争被害者のための財団」である。

 担当医の案内でメンバーは診療所内を見学した。薬の調合器具や肺活量の測定器などを見ながら「どれも最新式ね」と津谷さん。夫が呼吸器中心の内科医院を開いているだけに見る目は確かだ。治療のための薬の種類も、日本などで利用されているものと変わらないという。

技師も不足■

 しかし、エックス線は「宝の持ち腐れ」だった。扱える技師がいない。重症患者は首都テヘランまで車と飛行機を乗り継いで治療に行かなければならない。技師も専門医も明らかに不足していた。

 津谷さんは広島で代表を務める市民団体「モーストの会」でなにが支援できるかを考え始めていた。

 会は一九九四年から、チェルノブイリ原発事故の被災地やチェチェンなどの紛争地へ医薬品を送る活動を続けてきた。被爆直後の広島へ十五トンの医薬品を届けてくれたスイス人医師、故マルセル・ジュノー博士をはじめ、世界から被爆地が受けた援助へのお返しが活動の目的だ。

 津谷さん夫妻らは薬品を抱えて支援地に何度か足を運んだ。しかし、資金や人数の乏しい市民グループにできることは限られていた。パレスチナ難民への医療支援も、イスラエル政府が薬に法外な税を課すために一度きりで終わった。

 「サルダシュトなら『第二のヒロシマ』と、こちらの人たちが呼ぶほど被爆地とのつながりを求めているし、イラン政府も協力的だから、きっと交流の道は開けるに違いない」。津谷さんはそう直感した。手始めに、夫が広島大大学院時代に取り組んだ広島県大久野島の毒ガス被害者の研究成果を、現地の医師に電子メールで送る約束をした。

扉開く必要■

 不安もある。現場の医師らは、専門医や医療機器の不足を率直に打ち明けた。だが、運営する財団の職員らは「人も物も足りている」と最高指導者の手厚い支援ばかりを強調していた。

 津谷さんは「肺がんの早期発見に日本では一般的に使われている気管支鏡がなかった。足りんものもあるはずよ」と言う。ペルシャ文化の栄光を背負う誇り高い人々と本音で付き合える扉をまず開く必要がありそうだ。

 平和記念公園にあるジュノー博士の碑文は、三年前に七十五歳で亡くなった義父の故敏之さんが書いた。被爆直後の広島市内で医療活動に当たった先輩医師たちの苦闘をいつも語っていた。

 「あの時、だれも振り向いてくれんかったら、ヒロシマは恨みだけの町になっとったかもしれない。だれかに苦しみを分かってもらえたら、心の半分は癒やされるんじゃけえ」。津谷さんはイランの山奥で義父を思い出していた。

(2004年5月31日朝刊掲載)

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