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連載・特集

広島世界平和ミッション イラン編 ベールの向こう <6> つらい決断

中東の緊張 交流を阻む

 統制社会のイランでの平和交流には規制がつきまとった。ときには交流の日程が十分に埋まらない日もあった。そんなとき、広島世界平和ミッションのメンバーは博物館などを訪ね、ペルシャ文化や歴史に触れた。

 イラン滞在五日目の四月九日、金曜日。イスラムの休日ということもあり、朝から博物館を見学しようとメンバーはホテルのロビーに集まっていた。

誘拐の一報■

 ちょうどそのとき、広島国際文化財団の平和ミッション事務局から知らせが飛び込んだ。「イラクで日本人三人が何者かに誘拐された。今後の行動には十分気を付けるように…」。隣国での異常事態に、メンバーの息抜きムードは吹き飛んだ。

 人質の一人は、劣化ウラン弾の取材に力を注ぐ札幌在住のフリーライターの今井紀明さん(18)だという。間接的に彼を知る者もおり、メンバーにとって事件は一層わが身に迫った。

 「イラクのために汗を流そうとしていた民間人がさらわれた。現地の人には、どの日本人も米国に加担する国の国民としか映らないのか。われわれのミッションだって、ことによれば同じ状況が起こりうる」。大学助教授の藤本義彦さん(39)は、メンバーの不安を代弁するように言った。

 イラン国内は平静を保っていた。しかし、二日後にはイラク国境に程近い毒ガス弾攻撃を受けたサルダシュト市への訪問を控えていた。最も若い大学四年の荊尾(かたらお)遥さん(21)は「こんなときだからこそヒロシマの和解の精神を伝えなければと思う。でも正直怖い」と打ち明けた。

 メンバーにとっての最大の課題は「次の目的地のイスラエル・パレスチナを訪問するか、断念して帰国するか」だった。

 出発直前の三月二十二日には、パレスチナのガザ地区でイスラム原理主義組織ハマスの創始者アハメド・ヤシン師が、イスラエル軍に殺害されて現地の緊張は高まっていた。報復の自爆テロがいつ起きるともしれなかった。そこへ邦人人質事件が追い打ちをかけた。

 一行はサルダシュト訪問などイランでの交流を続けながら、事件の行方やパレスチナ情勢について情報を集めた。

揺れ動く心■

 事件についてはもっぱらテヘランで発行される英字紙と広島からファクスで届く日本の新聞に限られた。イスラエルと国交のないイランからは彼(か)の地の関係者に電話はつながらず、もどかしさが募った。日本では誘拐された三人への「自己責任」が、一部の政治家やマスコミなどでかまびすしく論じられ始めていた。

 イスラエルへの移動まであと二日。人質事件以来、平和交流の合間を見つけては重ねた議論も五回を数えた。結論を出すタイムリミットである。

 「妻は電話口で心配していたが、個人としてなら行ってみたい」と被爆者の寺本貴司さん(69)さんは言った。前夜はよく眠れなかったという荊尾さん。が、イスラエルで待つ友達に触れながら「彼女は広島からの平和ミッションの訪問を心待ちしている。それを思うと…」と、恐怖心と使命感の間で心が揺れ動いた。

 南アフリカ共和国とイランでの平和交流を通じて、紛争が続くイスラエル・パレスチナ訪問の意義はだれもが共通に感じていた。

 「しかし…」と専門学校生の小山顕さん(25)が言葉を挟んだ。「今のような状況の中で訪ねても、本当に和解のメッセージを聞いてほしい人たちに心の余裕があるだろうか。歓迎してくれるのは元から理解ある人だけではないか。もう少し様子を見てあらためて訪問すべきだ」

 薬剤師の津谷静子さん(49)は「無理をして一人でもけがをしたらミッションは失敗よ。第二陣、三陣とこれからも続く計画が継続できんよ」と珍しく語気を強めた。

 メンバーの思いは「イスラエル訪問断念」で、自然と固まっていった。平和の願いや民間人の善意をも拒む暴力の前に、行く手を阻まれた。

 しばらくの沈黙の後に寺本さんは仲間を励ますように言った。「私たちの平和づくりへの取り組みを断念するんじゃない。このつらい経験をこれからの活動の糧にしよう」

 第一陣の一行は、イランでの交流を終えた十五日テヘランをたち、計画より約二週間早く帰国の途についた。(岡田浩一)=イラン編おわり

(2004年6月5日朝刊掲載)

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