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連載・特集

広島世界平和ミッション 第二陣の思い <5> 郭貴勲さん(79) 韓国城南市

過去の清算 訴え熱く

 小泉首相の再訪朝に日本中がかたずをのんだ五月二十二日、日本にかかわる国際会議がソウルであった。現地の新聞報道によると、七カ国・地域の戦争被害者や運動家が集まり、「日本の過去の清算を要求した」とある。元韓国原爆被害者協会長として出席、冒頭にあいさつをしていた。

 「日本政府が相手の裁判で勝ったのは、数えるほどですから」。ソウル郊外の自宅に電話すると、日本語でも張りのある声が返ってきた。自ら原告となり、韓国や米国、ブラジルの在外被爆者への被爆者援護法の適用を一昨年認めさせた。にもかかわらず、政府は北朝鮮在住者だけは別とばかり放置する。見過ごされている問題の解決を呼びかけたという。

 「被爆者はどこにいても被爆者」。裁判でも訴えた信念が行動へと突き動かす。「年をとっても道案内はできます」と冗談を飛ばし、韓国を訪れる今回のミッションに現地で加わる。

 全羅北道に生まれ、全州師範学校の卒業を控えた一九四四年、朝鮮半島からの徴兵第一期生として広島に送られた。四五年八月六日朝、工兵作業に向かう途中の広島城北側、爆心地二キロで閃光(せんこう)を浴びた。

 「原子爆弾ニ依(よ)リ受傷…」。罹(り)災証明書を携え、解放された祖国に戻った。教師として国の再建に努め、民族が血を流し合った朝鮮戦争を生き抜いた。日本との国交が正常化した二年後の六七年に広島を再訪。日本の被爆者は治療が無料なのを知り、すぐさま韓国原爆被害者協会の創設に参加した。

 「治療すら受けられず多くの同胞が見殺しにされた。ようやく手にした各種手当はせめてもの償い」という。老齢や病気のため渡日もままならず、被爆者健康手帳を取得できていない人は九百人近いとみられている。

 電話の向こうの声は熱を帯びてきた。「日本の平和への訴えが、なぜアジアで信頼されないのか。過去に目をつぶり、きなくさい今の動きに心安らかにはなれないからですよ」。ミッションが中国を巡って韓国に入る七月一日は、満八十歳の誕生日と重なる。(おわり)

(2004年6月11日朝刊掲載)

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