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連載・特集

広島世界平和ミッション 第三陣の横顔 <2> 石原智子さん(58) 広島市安佐南区伴東

母の遺志 次代に継ぐ

 「こんなに歩いてもやせないのよ」。梅雨の合間を縫う晴天。修学旅行の下見に岐阜県から訪れた旅行業者を案内し、原爆資料館から広島赤十字・原爆病院、比治山を約四時間かけて歩いた。

 広島被爆者援護会の「平和学習講師」。七年間で修学旅行生を中心に、四百三十五団体に原爆の被害などを語った。

 「胎内被爆者だから、原爆が落ちた当時のなまなましい体験は語れません」。母の義子さんは被爆翌日、三次市から広島市へ入り救護活動に当たった。妊娠四カ月。間もなく髪は抜け、血も吐いた。「それでも私を無事に産んだのが自慢でした」

 その母は一昨年、八十歳で亡くなった。「相次ぐがんとの闘いでした。でも、農家の長男の嫁は丈夫でなくては、と信じていましたから、体のことも被爆のことも触れられたくなかったのでしょう」。子どもにすら、ほとんど体験を語ることはなかった。

 胎内被爆者であることを自覚したのは、東京都立の商業高一年の時である。原因不明のせきで四カ月苦しんだ。母の強い希望で、三次市の祖父母の元に預けられた。「広島には原爆後遺症に詳しい医師がいる」というのが母の主張だった。

 結局、胎内被爆の影響ではなかったが、母はこう打ち明けた。「胎内被爆で原爆小頭症などになった子もいる。わが子は世界で一番安全な場所にいたはずなのに、後遺症をずっと恐れてきた。大勢の母親がそんなつらい思いをしてきた」と。

 二人の娘を産んでからは、母のひと言を思い出すたびに涙がこみあげる。「つらさを語れなかった母の代わりに伝えなければ…」。年を重ねるごとに使命感にも似た思いがわいてきた。

 大のカープファン。自らを「中継ぎ投手」に例える。被爆体験を先発投手の被爆者から受け継ぎ、若いセーブ投手につなぐのが役目。「修学旅行生との触れ合いは、有望な投手をスカウトするようなものかなあ」と眼鏡の奥の目を細める。

 平和ミッションでは欧州連合(EU)の主要国を訪ねる。「東西冷戦が終わり、EU加盟国が拡大する今でも、核兵器保有は必要だと本気で思っているのだろうか」。現地の若者らに、じかに問いかけるつもりだ。

(2004年6月24日朝刊掲載)

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