世界遺産登録25年 原爆ドーム/厳島神社
21年12月6日
広島の二つの世界文化遺産、原爆ドーム(広島市中区)と厳島神社(廿日市市宮島町)が7日、登録から25年を迎える。登録を機に、世界平和や自然と調和した歴史の重みを訴える力は強まり、国内外の人を引き寄せてきた。
核兵器廃絶訴え続け
「多くの人の遺体が焼かれた。この辺りは、いわばお墓です」。胎内被爆者の三登浩成さん(75)=広島県府中町=が観光客に語り掛けた。15年前からほぼ毎日、世界遺産となったドーム前でボランティアガイドを続ける。案内したのは約180カ国の約25万人に上る。「ドームは被爆の物言わぬ証人。世界の人たちが訪れるこの建物の前で、最も若い被爆者の責務を果たしたい」
原爆ドームは1915年、広島市中心部に広島県物産陳列館として完成。33年、県産業奨励館と改称した。45年8月6日、米軍が投下した原爆の爆心地から約160メートルで被爆。爆風と熱線で大破し、中にいた人は全員が即死したとされるが、外側の壁などが残った。
世界遺産登録までの道のりは平たんではなかった。92年に世界遺産条約を締結した日本政府に対し、広島市や市議会が推薦を要望したが、文化庁は当初、「文化財としては年代が新しすぎる」と渋った。
翌93年、連合広島や県被団協、広島弁護士会などが「原爆ドームの世界遺産化をすすめる会」を結成。165万人余りの署名を集めた。「戦争は民間人の命を奪う。二度と繰り返してはならないとの全国の人たちの思いを結集できた」。結成時の代表の一人で連合広島元会長の被爆者森川武志さん(81)=東区=は振り返る。
市民の声は国会や政府を動かし、原爆ドームは国史跡の指定と政府の推薦を経て96年12月7日、世界遺産に登録された。
「人類の負の遺産である原爆ドームは、人々に悲劇を思い起こさせてくれる。平和への意思を研ぎ澄ます遺産だ」。登録に尽力した当時の広島市長、平岡敬さん(93)=西区=はその世界的な価値を強調する。
世界遺産となり、より多くの人が訪れるようになった。一方で「思い出したくない」と避ける被爆者もいる。三登さんの母親(103)もその一人。原爆で父親を亡くし、被爆後にドームを訪れたのは2回だけだ。「被爆者の苦しみに終わりはない。だからこそ被爆の実態を伝え続けたい」と三登さん。被爆者が高齢化する中、ドームを訪れる世界の人々に核兵器廃絶を訴え続ける。(小林可奈)
人口減と高齢化進む
「世界に認められ、教科書にも載った。神社への関心は高まった」。2014年に73代目の宮司に就いた野坂元明宮司(50)は、世界遺産に登録された効果を肌で感じている。
登録された1996年、宮島への来島者数は約298万人だった。以降は外国人観光客も増え、新型コロナウイルス感染拡大前の19年には約465万人を記録。1・5倍に増えて過去最多となった。来島者の6割は厳島神社を訪れるという。
野坂宮司は「私自身も宮島の生まれ。神社としては信仰が原点だが、観光で成り立つ宮島の町とは共存共栄の関係。神社を後進に引き継ぐことが宮島の繁栄につながる」と話す。
この四半世紀、宮島では11年に宮島水族館の大規模改装があり、瀬戸内海を一望する弥山展望台も14年に建て替わった。21年には厳島神社の門前町が国の重要伝統的建造物群保存地区(重伝建)に指定され、来島者の増加を後押しした。
一方で、25年前に2573人いた宮島の人口は今年4月1日時点で、6割弱の1482人に減少。65歳以上の割合が47・8%に上り、高齢化が進む。住民組織の宮島町総代会会長の正木文雄さん(72)は「今後も島の人口は減る。世界遺産という知名度があるからといって、このままではいけない」と将来を見据える。
厳島神社は593年創建と伝わり、12世紀に平清盛が海上社殿の原型を築いたとされる。本社本殿や東西の回廊など6棟が国宝、大鳥居や能舞台など11棟3基が国重要文化財。国天然記念物の弥山原始林を含む背後の森林区域なども含めて世界文化遺産に登録された。その歴史と自然が島外から人を引き寄せ、島を支える力になっている。
環境保全活動に取り組む「宮島地区パークボランティアの会」もその一つ。00年の発足以降、春と秋の年2回、散策ウオーキング会などを開く。11月には広島市などから28人が参加し、島内の古道を歩いた。島内の清掃活動も続ける。末原義秋会長(68)は「世界遺産の島を守ることに貢献したい」と話している。(永井友浩)
世界遺産
国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界遺産条約に基づき、人類共通の財産として保護する建造物や遺跡、自然。7月時点で、文化遺産は897件、自然遺産は218件、両方の要素を持つ複合遺産は39件ある。このうち、日本からは原爆ドームや厳島神社などの文化遺産20件、屋久島(鹿児島県)などの自然遺産5件が登録されている。
(2021年12月4日朝刊掲載)
原爆ドーム
被爆の実態 伝える証人
核兵器廃絶訴え続け
「多くの人の遺体が焼かれた。この辺りは、いわばお墓です」。胎内被爆者の三登浩成さん(75)=広島県府中町=が観光客に語り掛けた。15年前からほぼ毎日、世界遺産となったドーム前でボランティアガイドを続ける。案内したのは約180カ国の約25万人に上る。「ドームは被爆の物言わぬ証人。世界の人たちが訪れるこの建物の前で、最も若い被爆者の責務を果たしたい」
原爆ドームは1915年、広島市中心部に広島県物産陳列館として完成。33年、県産業奨励館と改称した。45年8月6日、米軍が投下した原爆の爆心地から約160メートルで被爆。爆風と熱線で大破し、中にいた人は全員が即死したとされるが、外側の壁などが残った。
世界遺産登録までの道のりは平たんではなかった。92年に世界遺産条約を締結した日本政府に対し、広島市や市議会が推薦を要望したが、文化庁は当初、「文化財としては年代が新しすぎる」と渋った。
翌93年、連合広島や県被団協、広島弁護士会などが「原爆ドームの世界遺産化をすすめる会」を結成。165万人余りの署名を集めた。「戦争は民間人の命を奪う。二度と繰り返してはならないとの全国の人たちの思いを結集できた」。結成時の代表の一人で連合広島元会長の被爆者森川武志さん(81)=東区=は振り返る。
市民の声は国会や政府を動かし、原爆ドームは国史跡の指定と政府の推薦を経て96年12月7日、世界遺産に登録された。
「人類の負の遺産である原爆ドームは、人々に悲劇を思い起こさせてくれる。平和への意思を研ぎ澄ます遺産だ」。登録に尽力した当時の広島市長、平岡敬さん(93)=西区=はその世界的な価値を強調する。
世界遺産となり、より多くの人が訪れるようになった。一方で「思い出したくない」と避ける被爆者もいる。三登さんの母親(103)もその一人。原爆で父親を亡くし、被爆後にドームを訪れたのは2回だけだ。「被爆者の苦しみに終わりはない。だからこそ被爆の実態を伝え続けたい」と三登さん。被爆者が高齢化する中、ドームを訪れる世界の人々に核兵器廃絶を訴え続ける。(小林可奈)
厳島神社
来島者1.5倍 観光けん引
人口減と高齢化進む
「世界に認められ、教科書にも載った。神社への関心は高まった」。2014年に73代目の宮司に就いた野坂元明宮司(50)は、世界遺産に登録された効果を肌で感じている。
登録された1996年、宮島への来島者数は約298万人だった。以降は外国人観光客も増え、新型コロナウイルス感染拡大前の19年には約465万人を記録。1・5倍に増えて過去最多となった。来島者の6割は厳島神社を訪れるという。
野坂宮司は「私自身も宮島の生まれ。神社としては信仰が原点だが、観光で成り立つ宮島の町とは共存共栄の関係。神社を後進に引き継ぐことが宮島の繁栄につながる」と話す。
この四半世紀、宮島では11年に宮島水族館の大規模改装があり、瀬戸内海を一望する弥山展望台も14年に建て替わった。21年には厳島神社の門前町が国の重要伝統的建造物群保存地区(重伝建)に指定され、来島者の増加を後押しした。
一方で、25年前に2573人いた宮島の人口は今年4月1日時点で、6割弱の1482人に減少。65歳以上の割合が47・8%に上り、高齢化が進む。住民組織の宮島町総代会会長の正木文雄さん(72)は「今後も島の人口は減る。世界遺産という知名度があるからといって、このままではいけない」と将来を見据える。
厳島神社は593年創建と伝わり、12世紀に平清盛が海上社殿の原型を築いたとされる。本社本殿や東西の回廊など6棟が国宝、大鳥居や能舞台など11棟3基が国重要文化財。国天然記念物の弥山原始林を含む背後の森林区域なども含めて世界文化遺産に登録された。その歴史と自然が島外から人を引き寄せ、島を支える力になっている。
環境保全活動に取り組む「宮島地区パークボランティアの会」もその一つ。00年の発足以降、春と秋の年2回、散策ウオーキング会などを開く。11月には広島市などから28人が参加し、島内の古道を歩いた。島内の清掃活動も続ける。末原義秋会長(68)は「世界遺産の島を守ることに貢献したい」と話している。(永井友浩)
世界遺産
国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界遺産条約に基づき、人類共通の財産として保護する建造物や遺跡、自然。7月時点で、文化遺産は897件、自然遺産は218件、両方の要素を持つ複合遺産は39件ある。このうち、日本からは原爆ドームや厳島神社などの文化遺産20件、屋久島(鹿児島県)などの自然遺産5件が登録されている。
(2021年12月4日朝刊掲載)