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連載・特集

[ヒロシマの空白 被爆76年 証しを残す] 原爆写真 重み増す「証言」

わが家・焼け跡 自ら写す

 76年前、米軍が広島に投下した一発の原爆で、街は、人間はどうなったのか。自ら被爆し、家族や住まいを奪われた人たちが撮った「原爆写真」は今に惨禍を伝える証言者だ。本紙が調査し特集を掲載した2007年以降も、原爆資料館(広島市中区)には200枚以上が寄贈された。関連の証言や記録と突き合わせ、被爆実態の解明と発信に生かすことが欠かせない。かたや貴重なフィルムは劣化の危機にひんしている。「新資料」に刻まれた記憶をひもとき、保存のあり方を探る。(水川恭輔、明知隼二)

 障子戸が倒れ、屋根の一部が崩れているように見える。1945年8月6日、爆心地から約2・3キロ離れた広島駅東側の広島市愛宕町(現東区)の自宅で被爆した根石福司さん(1979年に68歳で死去)は、破壊されたわが家を撮った。

 「8・6 愛宕町の家 原爆被爆状況」。根石さんが残したプリントの裏にはそう記されている。岡山市内の遺族が2007年に資料館に寄贈した。戦前から帽子店を営み、写真が趣味だった根石さんは当時34歳。生前、「被爆からすぐに撮った」と家族に話していたという。市民が被爆直後に自宅内を撮った写真は非常に珍しい。

 取材を進めると、根石さんが描いた「原爆の絵」が資料館に残っていることが判明。近くの東練兵場に逃げた時に見た原子雲を描き、「自宅で被爆した時、直撃をうけたと思った」と衝撃を記していた。米軍の原爆投下後の航空写真を見ると、根石さん宅周辺は全焼区域すれすれだった。

火災なすすべなし

 一方、全焼した広島駅南側の写真もネガを添えて資料館に寄せられていた。江戸時代から京橋町(現南区)で酒造業などを営んでいた「保田七兵衛商店」の跡付近のカット。店を経営していた保田仲蔵さん(86年に73歳で死去)の妻攝子(せつこ)さん(96)=東区=が17年に託した。

 あの日、保田さんは店のそばの自宅で崩れた壁の下敷きになり、家族に助け出された。警防団の分団長としてすぐに負傷者の救護に当たったが、広がる火災になすすべがなく、「燃えるにまかせる状態であった」(本人の手記)。

 店と自宅は全焼。焼け跡の写真はカメラが趣味だった弟の守吉さん(84年に69歳で死去)が45年末に撮影し、親戚の店があった繁華街の跡なども収めた。

 「父に原爆について聞いても話したがらなかった」と保田さんの長男訓雄さん(74)=同。「園の白菊」の銘柄で知られた酒造りは戦後再起できず、廃業した。

乳児の妹探し歩く

 猫屋町(現中区)の光道国民学校2年だった7歳の時に被爆した小田勇司さん(16年に78歳で死去)は08年、焼け跡などを収めたプリント9枚を寄贈。子どもながらも「自分で撮った」と学芸員に証言した。子どものころから写真に興味があり、カメラ好きの父に操作を教わっていたという。

 寄贈時の証言や旧厚生省の募集に応じた手記によると、爆心地から約800メートル西北の自宅の中庭で被爆。母節代さんと市外の親戚宅に逃げた。だが、乳児だった妹祝子さんと子守をしていた叔母が行方不明になった。

 両親たちと2人を探し歩く際、親戚宅に移されていた小型カメラを携えたという。小田さんは寄贈時、被爆2日後ごろから撮ったと証言。資料館は今回あらためて9枚を精査し、オリジナルと結論づけた。河岸の状態などから少なくとも2枚は翌月の枕崎台風以降の撮影とみられると分析した。

 妹たちだけでなく、出血や脱毛に襲われた母も被爆23日後に亡くなった。小田さんにとって悲痛な記憶が刻まれた9枚。横浜市でともに家庭を築いた妻京子さん(71)は「生前は毎年広島への墓参りを欠かさず、今は本人も眠っています。広島で写真が役に立てば本人も喜ぶはずです」と話す。

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これまでの取り組みや課題は

情報の「穴」 少しずつ埋まる

新資料確認も続く

 1945年8月6日から同年末、原爆を落とされた側から広島の惨状を撮った「原爆写真」。中国新聞は2007年8月14日付の特集「ヒロシマの記録」で調査結果を報じた。取材は西本雅実編集委員(当時)。その時点の判明分で「57人が少なくとも計2571枚を撮っていた」とし、一人一人の撮影状況やネガ・プリントの現存状況を載せた。

 原爆写真は撮影当初から公開を制限され、撮影者などの情報に長年「空白」が多かった。広島に置かれた陸軍船舶司令部写真班のネガは敗戦後に焼却を命じられ、米軍進駐後の45年9月19日に原爆報道を検閲するプレスコードが発せられた。一方で、撮影者らが米軍の接収にあらがうなどしてネガやプリントが残された。

 70年代に入り、ようやく撮影者が撮影当時や残したネガについて証言する動きが広がった。被爆当日の市民の惨状を撮った元中国新聞カメラマンの故松重美人さんらは78年、「広島原爆被災撮影者の会」を結成。81年、20人が撮った計285枚を収めた写真集「広島壊滅のとき」を出した。

 「ヒロシマの記録」は、同会が残したプリントや撮影台帳を手掛かりに取材を進め、ほかに故菊池俊吉さんたち東京の写真家の資料も掘り起こした。原爆資料館の学芸員の協力を得て、過去の写真の寄贈記録なども調べ上げた。今も、原爆写真の「基礎データ」として参照されている。

 ただ、資料館への寄贈などで近年も新たな写真の確認は続く。引き続き資料の発掘が求められる。既に発表されている代表的な写真についても、同館は18年に被爆翌日の市中心部を撮った故岸田貢宜さんの写真のネガの寄贈を受け、市教委は今年3月に松重さんのネガ5点を市重要文化財に指定した。劣化が進むネガの保存・活用で公的機関に求められる役割は増している。

「記憶は薄れる」原本保存

写真家協会 劣化の危機 費用負担重く

 写真のネガやガラス乾板といった原本を貴重な歴史記録として保存する動きもある。日本写真家協会(東京)が、国立映画アーカイブ相模原分館(相模原市)の一角を借りて2012年から運営する日本写真保存センターだ。

 可動式の棚が並ぶ地下収蔵庫は長袖でも肌寒いほどで、フィルムの長期保存に適した室温10度、湿度40%に保たれている。4室で計500平方メートルのスペースを確保している。「人間の記憶は薄れ、消えていく。歴史の裏付けとなる写真の原本を残すことが大切だ」。案内してくれた同協会名誉会員の松本徳彦さん(85)はそう語る。1980年代から保存の重要性を訴え、センターの設立にも尽力した。

 センターの活動が本格化したのは、文化庁の調査研究費を得た07年。国内の著名な写真家たちの遺族宅を訪ねてフィルムの保存状況を調べた。高温多湿な日本の風土で、ビネガーシンドロームと呼ばれる劣化現象が進む深刻な状況が浮かび上がった。各地の郷土資料館などに寄贈されることもあるが、松本さんは「文化財の予算はもともと乏しい。フィルム保存の予算や専門家の確保は難しいだろう」と懸念する。

 原爆資料館(広島市中区)も衣類など被爆資料の保管のため博物館並みの温湿度管理はしているが、フィルムに特化した環境まで整えるのは難しいのが実情だ。落葉裕信主任学芸員(44)は「寄贈者も原爆資料館を選んで預けてくれている。原爆の記録写真は、被爆地で永久保管できる体制があればいいのですが」と悩む。

 写真保存センターは20年度までに、戦後復興や日本の風土を収めた写真など約34万点の原本を集め、うち約11万点を収蔵した。しかし保存にかかる光熱費や搬入費の負担は重い。劣化を防ぐ中性紙の包材なども「文化庁の予算だけでは到底足りない」(松本さん)。協賛企業の支援金や寄付で賄うのが現状だ。

 松本さんの印象に残るのは、調査で訪れたフランスや米国の写真保存施設だ。いずれも原本の保存やデジタル化に国が膨大な予算を投じていた。「歴史や文化の記録保存はもうかる事業ではないが、50年後に大きな意味を持つはずだ」。国の文化行政としてのより主体的な関与を求めている。

(2021年12月5日朝刊掲載)

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