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証言 記憶を受け継ぐ

『記憶を受け継ぐ』 竹内章さん―顔と腕焼かれ死を覚悟

竹内章(たけうち・あきら)さん(88)=広島市西区

毎朝のガーゼ交換 「痛うて痛うて…」

 当時12歳(さい)だった竹内章さん(88)は、爆心地から約2キロの校庭で被爆し、顔右半分と右腕(みぎうで)を焼かれました。戦後は自宅(じたく)の焼(や)け跡(あと)にバラックと鉄工所を建てて、一生懸命(いっしょうけんめい)生活しました。「皆(みんな)に助けてもらい、幸運だったから生(い)き延(の)びた」と振り返ります。

 父秀(しげる)さん=当時(45)=と母みは子さん=同(41)、弟2人の5人家族でした。家は東観音町(現西区)の天満川沿(ぞ)いにあり、よく泳いで遊んだそうです。自宅(じたく)で軍艦(ぐんかん)の塗装(とそう)料に使う石粉の製造工場を営んでいた秀さんは1945年当時、肺結核(はいけっかく)で広島陸軍病院三滝(みたき)分院に入院していました。

 竹内さんは県立広島商業学校(現県立広島商業高)の1年生でした。8月6日朝、皆実(みなみ)町(現南区)の旧県立広島師範(しはん)学校の校庭で、建物疎開(そかい)作業に向かおうと整列していました。

 普段(ふだん)は午前8時に出発しますが、この日は職員会議が長引いていました。上空に米軍のB29爆撃(ばくげき)機が見えました。まぶしさを遮(さえぎ)ろうと右腕をかざして眺(なが)めていると、突然(とつぜん)閃光(せんこう)を浴びました。気付くと地面に倒(たお)れ込(こ)み、辺りは砂(すな)ぼこりで真っ暗。「ガスのタンクに爆弾(ばくだん)が落とされた」と思いました。

 家に戻(もど)ろうと比治山橋に行きましたが、その先は火災で通れません。顔半分と右腕の皮膚(ひふ)がずるむけで、真っ赤になっていました。身体を冷やすためとっさに京橋川へ飛(と)び込み、岸に上がると人々が「宇品(うじな)へ逃(に)げろ」と言いながらぞろぞろと歩いていました。被災(ひさい)者の人波に付いて行き、広島陸軍共済(きょうさい)病院(現県立広島病院、南区)に着きました。板に乗せられ、顔などに油を塗(ぬ)られました。夜は近くの広島女子専門(せんもん)学校(女専、現県立広島大)の裁縫室(さいほうしつ)に収容(しゅうよう)されました。

 9日の朝、自宅で被爆したみは子さんと、工場の職人2人が迎(むか)えに来ました。大八車で親戚(しんせき)が営む祇園(ぎおん)(現安佐南区(あさみなみく))の病院に運ばれました。医師から「こりゃもう、だめで(助からない)」と言われたのを覚えています。

 死を覚悟(かくご)しましたが、頭の中は痛(いた)みと苦しみでいっぱいです。特に毎朝、看護(かんご)師が傷口(きずぐち)に張り付いたガーゼを取(と)り換(か)えてくれる時は「痛うて痛うて…」。それでも、治療(ちりょう)のかいがあり1カ月ほどで退院しました。

 8月末、みは子さんの古里の甲奴(こうぬ)村(現三次市)に向かいます。途中(とちゅう)で、陸軍病院で被爆し別の国民学校に収容されていた秀さんを見舞(みま)いました。しかし秀さんは、9月3日に息を引き取りました。

 一家の大黒柱がいなくなり、16人いた職人は解散。自宅も工場も焼失し、11月から江波(えば)町(現中区)で学校が再開すると楽々園(現佐伯区)の親戚宅から通いました。翌年(よくとし)には焼け跡にバラック(小屋)を建て、苦労しながら4人で生活しました。

 学校制度の改革(かいかく)で観音高商業科2年に編入しました。卒業後は焼け跡に鉄工所を建てて鉄を売る仕事を始め、28歳で妻ゆかりさんと結婚(けっこん)。2人の子どもに恵(めぐ)まれました。老後は、趣味(しゅみ)の水泳で体を鍛(きた)えています。2年前には日本マスターズ水泳短水路大会に出場し、85~89歳男子の25メートル自由形で全国24位になりました。長男も入っていたボーイスカウトの活動も、45年前から続けています。

 竹内さんは、戦争をしないためには「意見がぶつかっても、相手ときちんと話し合うことが大事」と話します。現在も務めている町内会の会長として、日々大切にしていることです。(湯浅梨奈)

私たち10代の感想

一人では生きられない

 竹内さんが何度も「皆(みな)さんのおかげです」「運が良かったんですよ」と話していたことが印象に残っています。顔や腕(うで)にひどいやけどを負いながらも、親戚(しんせき)が医師だったことや看護(かんご)師が毎日油を塗(ぬ)ってくれたことが重なって、痕(あと)も残らなかったそうです。人は一人では生きていけないとよく言われますが、より一層(いっそう)そう思いました。(中3中真菜美)

相手の意見 丁寧に聞く

 世界平和のために「話し合いが大切」と竹内さんは言いました。核兵器(かくへいき)を持つ国は「核兵器があるから平和が保たれる」と主張しますが、「人命が脅(おびや)かされる」と主張する国もあります。「十人十色の主張をいかにうまくまとめていくかが平和への一歩」と語っているのが印象的でした。丁寧(ていねい)に意見を聞くことを大切にしたいです。(中2谷村咲蕾)

(2021年12月6日朝刊掲載)

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