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連載・特集

近代発 見果てぬ民主Ⅰ <10> 弾圧と撤退

新聞投書による学び場解散

 文明開化を進めるために新聞を奨励した明治政府だが、新聞論調が民権派に傾くと抑圧に転じる。新たな新聞紙条例と讒謗律(ざんぼうりつ)が明治8(1875)年6月28日に制定された。

 下院になぞらえた初の地方官会議が開催中で、民主的な進展に対する為政者側からのけん制でもあった。明治23(90)年の初国会開会直前の教育勅語発布、大正14(1925)年に普通選挙法とほぼ同時の治安維持法制定と歴史は繰り返す。

 2法により各紙が軒並み筆禍事件に巻き込まれた。1年間で47人が投獄を含む処罰に遭う。1年後を期して東京と横浜の全新聞社が休刊し新聞供養大施餓鬼会を開いた。ブラックユーモア的抵抗である。政府批判を続けて新聞は部数を伸ばした。

 一方、小田県(広島県東部と岡山県西部)で民権運動を主導する粟根村(福山市加茂町)の窪田次郎は逆風にさらされた。明治7(1874)年の地方官会議へ県民意見を集約する第6大区会議決案での政府批判、地方官会議を「政府の私会」と非難した明治8年7月の演説は新聞に掲載され、為政者を刺激した。

 上京して政府に勤めていた恩師で儒学者の阪谷朗廬(ろうろ)から手紙が届いた。新聞紙条例違反による筆禍の嵐が吹き荒れており、「活動はほどほどに」との忠告である。かねて中国筋で陰謀の企てを官憲が警戒中との風聞もあった。

 窪田の小田県臨時民撰(みんせん)議院の開設要求に応じた開明的な矢野光儀権令(ごんれい)は、地方官会議に上京のまま同年9月初めに免職となった。自身が突出するあまり、頼れる共闘相手も見いだせない窪田は師の言に従う。

 郵便報知新聞への投書を通じて政治経済から社会問題まで学び合った蛙鳴群(あめいぐん)も解散することになった。支持者への返答として窪田は同年10月、投書は今回で最後にするとの文面を同紙に寄せた。

 最後の投書を短歌で締めくくった。「三日月ノ光ヲ添ヘテ刈ル稲ニ ナホツレナクモ時雨降ルナリ」

 東西の尾根に挟まれた粟根を訪れた今年秋、棚田に黄金色の稲穂が揺れていた。146年前、この地に生えて冷たい雨に打たれた「民主の稲」のことを思った。(山城滋)

阪谷朗廬
 1822~81年。井原市出身。幕末に開国論を唱え、渋沢栄一の紹介で一橋慶喜に講義した。興譲館の初代館長を経て上京。啓蒙(けいもう)家に交じって投稿した「明六雑誌」は2法の制定後、福沢諭吉らの意見で廃刊となった。

(2021年12月7日朝刊掲載)

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