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社説・コラム

[歩く 聞く 考える] 開戦と終戦の失敗 平和守るためにも出口戦略を 防衛研究所主任研究官 千々和泰明さん

 80年前のきょう、日本は太平洋戦争を始め、悲惨な結果を招いた。当時の指導者はどのような見通しで戦争に踏み出したのか。「出口戦略なき開戦だった」と、防衛省防衛研究所主任研究官の千々和泰明さん(43)は語る。この夏著した「戦争はいかに終結したか」(中公新書)では、日本が失敗に学ばず、今も戦争が起きた場合の終結戦略を持たないことを憂慮してもいる。あの戦争の失敗に、いま何を学ぶべきかを聞いた。(論説委員・田原直樹、写真も)

  ―出口戦略なしで米国との戦争を始めたのですか。
 とても戦略とは呼べない、希望的観測を重ねたものはありました。「対米英蘭戦争終末促進に関する腹案」で、ドイツが勝つことを前提にしたものです。英国が屈服するから米国も戦争継続の意志を失う。よって日本は米国と引き分けに持ち込める―。他国頼みの上、都合のいい予想を重ねていました。当然、外れましたが、それがいかに悲惨な結果をもたらしたか。節目の日に再認識すべきです。

  ―なぜ、そんな甘い見通しで突入したのでしょうか。
 ドイツに乗っかっていけばいいという感覚だったようです。開戦時の日本は、終戦の時も同じですが、意思決定や組織のあり方が全くなっていなかった。陸軍も海軍も責任を持ちたがらず、誰が決定に責任を持つのか曖昧な体制でした。最高戦争指導会議も、縦割り組織の利益代表者の集まりにすぎなかった。結局、戦争終結の決定を下せませんでした。

  ―著書「戦争はいかに終結したか」は、20世紀の戦争がどう終わったかを分析しています。
 戦争では優勢な側が、自国の「犠牲」と相手の「危険性」のバランスをみて、終わらせ方を主導します。ナチスドイツを壊滅させたほどではないものの、米国は日本を根底からつくり直そうと、無条件降伏させる強い姿勢でいました。

  ―一方、劣勢の日本は終戦へどう動いたのですか。
 敗色が濃いにもかかわらず、「損切り」を決断できませんでした。戦局が悪化してからも、一撃を加えれば敵も和平に動くはずと考えたり、さらにソ連が仲介してくれるはずだという幻想にすがったり。そうして戦争を長引かせてしまいます。ガバナンス(組織統治)の欠如が被害を増大させ、戦争終結に失敗したのです。

  ―その教訓を、戦後の日本は生かせていませんか。
 二度と戦争を起こしてはならないと、強く誓いました。それを強く思うあまり、戦後日本では軍事、戦争に関する研究が忌避されてきました。とりわけ戦争終結を考えることは、戦争に容認的だとみられかねず、研究がなされてきませんでした。

 でも、私たちはずっと幻想を抱いてきたのではないか。例えば原発だって、事故を起こさないと信じてきましたが幻想だった。「安全神話」は崩れ去り、今も苦しめられています。

  ―戦争を放棄していますが、万が一を想定すべきですか。
 東アジアの情勢を見れば、巻き込まれる可能性がゼロとは言えないと思います。仮に朝鮮半島や台湾で有事の場合に「日本は関係ありません」と言えるでしょうか。今は米国も「世界の警察官」的な役割を縮小させています。これまでのように自国の安全だけ守る「一国平和主義」では通用しないでしょう。

 不幸にも戦争が起きてしまった場合に、どのように収拾し、相手側とどういう条件で講和を結ぶのか。万が一の場合のため「出口戦略」を議論しておくのは重要です。相手の出方を慎重にさせる効果もあるでしょう。

  ―確かに東アジア情勢は米中対立もあり、緊迫しています。
 平和安全法制が制定され、戦争の抑止や自衛隊の初動対処については議論がなされるようになりました。でも武力衝突に至った先をどうするか。その「頭の体操」も大事です。

 もちろん戦争は起きてほしくはありません。でも今後も抑止策が効いて、戦争は起きないと考えるだけでは不十分ではないでしょうか。抑止論や同盟論があるように戦争終結論をタブー視せず研究しておくべきです。

■取材を終えて

 無謀な「出口戦略なき開戦」によって顔も知らぬ親類を何人も亡くした。当時の指導部に憤りを覚える。だが日本には今も戦争終結を考える研究がないという。もう開戦などあってはならないが考えてはおくべきか。

ちぢわ・やすあき
 滋賀県甲賀市生まれ、福岡県飯塚市育ち。広島大法学部卒。大阪大大学院国際公共政策研究科博士後期課程修了。防衛研究所戦史部第二戦史研究室の教官などを経て11年に内閣官房副長官補(安全保障・危機管理担当)付主査。13年から防衛研究所戦史研究センター主任研究官。ことし刊行した著書「安全保障と防衛力の戦後史 1971~2010」(千倉書房)は日本防衛学会猪木正道賞を受賞。

(2021年12月8日朝刊掲載)

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