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連載・特集

近代発 見果てぬ民主Ⅰ <11> 地租改正

重い税負担 各地で闘争勃発

 洋装に身を固めた官吏が測量を指揮し、気が気でない農民の表情も見て取れる。地租改正の測量の様子を描いた絵馬が庄原市の西原八幡神社に伝わる。明治6(1873)年の地租改正公布により、こんな光景が各地で繰り広げられた。

 地租として毎年徴収される地価の3%は、当時の標準モデルで収穫の34%に当たる。小作人はさらに34%の地代を地主に渡すと32%しか手元に残らない。重い負担に反対する闘争が各地で起きた。

 岡山県は農民の強い不満に配慮し、低めに地租を算定する方式を独自に採用して国と対立する。明治8(75)年10月7日、当時の県権令(ごんれい)が免官となった。

 内務卿(きょう)の大久保利通が代わりに送り込んだ県令が薩摩閥の高崎五六である。着任早々、県役人を一斉罷免して自分に従う者のみを再任用する荒療治で地租改正を強行し、「鬼県令」と恐れられた。

 さらに何の前触れもなく同年12月10日、小田県(現在の広島県東部と岡山県西部)が岡山県に編入された。民権派への理解があった矢野光儀権令の解任に次ぐ、小田県バッシングの総仕上げだった。

 粟根村(福山市加茂町)の窪田次郎は政治活動をやめたが、地租改正問題は別だった。村医として接する農民が富を蓄えてこその富国と信じていた。欧米並みに地租を軽くすれば農民消費が増えて商工業が発展し、商工物品税を取れば国が富むとの極めて合理的な考えである。

 窪田は粟根村一同と農家の平均収支表を作成し、生産と生活実態に根ざした訴えを県に続ける。高崎県令は部下を通じ「これ以上抵抗するなら錦旗を待っておれ」と朝敵扱いのどう喝で異議を封殺した。

 明治9(76)年12月、地租改正への不満から大規模一揆が東海や関西で勃発。拡大を恐れた政府は明治10(77)年1月、地租税率を2・5%に軽減した。「竹槍(やり)でどんと突き出す二分五厘」と言われ、自由民権運動勃興のきっかけにもなる。

 明治後期には窪田の考えに近い税制になるが、明治8年時点では国税収の85%が地租だった。豪農層に政治参加への権利意識が芽生えてくるのは必然だった。(山城滋)

 国の租税収入の比率 明治8(1875)年は地租85.1%、酒税3.8%、関税2.9%など。明治38(1905)年には地租32%、所得税9.3%、営業収益税7.5%、酒税23.5%、関税14.6%などと多角化している。

(2021年12月8日朝刊掲載)

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