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広島世界平和ミッション 中国編 歴史を見つめて <2> 被爆証言 痛切な記憶に反論鋭く

 広島市佐伯区の福島和男さん(72)が、被爆体験を人前で証言したのは昨年の八月六日、東京都新宿区の「平和派遣」で訪れた親子への一回だけ。「外国でも分かってもらえるだろうか…」。北京に着いても、手書きの文書を推敲(すいこう)して臨んだ。

 創設は一八九八年にさかのぼる北京大は、キャンパスの広さが百八十万平方メートル。清朝末期に建てられたという歴史学部の教室に教官や大学院生ら十一人が現れた。

 「ニイハオ(こんにちわ)」。福島さんは緊張をほぐすように中国語で沸かし、広島大大学院の岳迅飛さん(32)=東広島市=の通訳で話し始めた。「私の家は爆心地から二百メートルでした」。実家の旅館は、原爆投下の目標とされたT字形の相生橋の南側にあった。

  記録写真も■

 十三歳の夏、学徒動員先の工場で閃光(せんこう)を浴び、自宅へ向かう道も川面も、変わり果てた姿ばかりで人間としての感覚すら失ってしまった…。広島市の原爆資料館が所蔵する、両親らの遺品である旅館跡で見つかった焼けただれた徳利を手に、「八月六日」に起きたことを淡々と語った。

 被爆直後の市民を撮った中国新聞の記録写真や、米国戦略爆撃調査団の空撮写真を収めたCDを、東京大三年の森上翔太さん(20)=廿日市市出身=が証言に沿ってプロジェクターに映し出した。参加者はかたずをのむ表情を浮かべた。そして厳しい問い掛けが教室を覆った。

 抗日戦争(日中戦争)の研究が専門の徐勇教授(55)が、口火を切った。

 「悲しみを忘れない福島先生の話を聞いて、私は古里の悲劇を思い出した」。四川省の塩の産地に襲い掛かった日本軍の無差別爆撃による被害を紹介し、原爆資料館で自ら撮ったという写真を差し出した。館が「戦前の広島」コーナーで展示している、日中が全面戦争に突入した一九三七年の盧溝橋事件を報じた当時の新聞記事だった。

 「広島市は、あのような記事で抗日戦争の真相を説明できると思っているのか。日本国民は今あの戦争をどう見ているのか」。鋭く迫った。

 反応に困惑■

 森上さんが硬い表情で答えた。「肯定なんかしていない。しかし批判されるばかりでは、日本の若い世代も避けてしまう。ありのままの事実を知り、共有することが大切だと思う」。徐教授は諭すように「帰ったら、歴史の善悪をもっと学んでほしい」と求めた。

 大学院生の質問はさらに険しさが増した。張会芳さん(24)は出身地の江蘇省で起きた南京大虐殺を挙げ、「事件を知っているのか」「原爆は日本の侵略戦争を止めた」「福島先生は米国民を恨んでいるのか」。畳み掛けるように話した。

 福島さんは困惑していた。「本当は思い出したくない」記憶をさらけ出した末に、戦争を体験していない若者にまでなぜ責められなくてはならないのか…。それでも応じた。「原爆の投下を命じたトルーマン(大統領)は憎いと思ったが、国民を恨んだことはない。復讐(ふくしゅう)心なんかない」

 中国は九〇年代半ばから「愛国主義教育」に力を入れる。若い世代はインターネットで、日本の過去と歴史認識に過激な議論を展開している。

 岳さんは、母国のエリート学生からも感情的な発言はあるだろうと予期していた。顔を曇らせながら、福島さんが悲しみのうちにまさぐった言葉を冷静に通訳した。

(2004年7月27日朝刊掲載)

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