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広島世界平和ミッション 中国編 歴史を見つめて <4> 原爆の教訓 惨劇に同情 核は「必要」

 中国語版「原爆の子」の題名は「〓菇云下的悲〓」、日本語に再び直すと「きのこ雲の下の悲劇」を表すという。彭家声さん(75)、張光珮さん(74)夫妻は、木々に囲まれた北京大日本研究所で、ミッションメンバーに日本語でこもごも語った。

親子で翻訳■

 「二人とも一九七九年から東京の中国大使館に勤務となり、沖原先生から『この本を中国で紹介してほしい』と、翻訳を勧められたんです」

 「原爆の子」は、米軍占領下の時期に、被爆者でもあった教育学者長田新氏(故人)が提唱し刊行された。沖原豊氏(広島大元学長)は門下生として、原爆で親きょうだいを失った子どもらの手記を集めて回った一人。

 夫妻は、中国が前年の七八年に日中平和友好条約を締結し、「改革・開放」が進む中で大きな流れとなる「日本留学」を担当するため赴任した。

 張さんは中国青年団員として五七年来日し、復興期の広島を訪れた経験があった。さらに京都大の招きで七四年に再訪。入院中の被爆者も見舞った。「原爆の子」を読んで「日本語の研究者として翻訳への使命感を覚えた」と振り返る。

 中国では出版物は国の許可が要る。八四年に帰国した夫妻を翻訳者として推す沖原氏の教育部への書状が後押しとなり、日本文学を専攻していた一人娘を交え親子三人で手分けし、翻訳を始めた。

 夫妻は八七年再びそろっての駐日勤務となった。日曜日になると、都内の図書館で「閉館ですよ」と言われるまで、長田氏の序文から手記百五編をつぶさに訳していった。広島弁のニュアンスにはてこずった、と笑顔で顔を見合わせた。

 メンバーからの「なぜ、そこまで」の問い掛けに、張さんが答えた。

 「感動したからです。子どもたちの泣き声、叫び。娘は眠れないほど悲しいと言いました」。中国語で「原爆の子」といっても伝わらない。「きのこ雲の下の悲劇」と付けたのは広島大に留学していた、現在は中央大総合政策学部助教授の彭浩さん(42)だった。

3500部は完売■

 北京大出版社から八九年に出た三千五百部は売り切れたという。読者からは「侵略戦争は一般の日本人も苦しめた」との感想が寄せられた。夫妻は、メンバーの一人、福島和男さん(72)=広島市佐伯区=が被爆者と知って「後遺症は…」と案ずるように尋ねた。

 「この手記を書いた女性は私の知り合い、広島で健在です」。井下春子さん(72)=同市南区=もヒロシマの願いの理解者と出会ったと思った。ところが原爆投下と核兵器の保有をめぐっては、夫妻はこのように言う。

 「原爆が使われた根本の原因は日本のアジア侵略ですよ」「中国が核兵器を持っていなかったら、米国はどうすると思いますか」。彭さんは中国語でも重ねて強調した。

 福島さんは「原爆被害者への同情と、核兵器への考えは別物なんですなぁ…」と帰り道、ため息をつくように話した。

 メンバーは北京滞在の最終日、訪ねた大手新聞社の「北京青年報」で広島原爆を扱った一昨年八月六日付の一ページ特集を贈られた。廃虚の写真を添え、「あのような悲劇を防ぎ、国の独立と安全を守る至上の宝が核兵器である」と結んであった。

 六四年に核実験に成功した中国は今、四百個の核弾頭を保有しているとみられる。岳迅飛さん(32)=東広島市=は記事を訳し終え、「侵略に見舞われた歴史から、外国への不信感が強いのも中国です」と補足した。

(2004年7月29日朝刊珪砂)

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