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連載・特集

近代発 見果てぬ民主Ⅰ <12> 公選制の県会

予算案 片っ端から減額修正

 藩閥リーダーにも色合いの違いがある。農商兵を含む諸隊が主力だった長州の木戸孝允(たかよし)はおおむね進歩的で、武士の軍隊にこだわった薩摩出身の大久保利通は保守的な印象である。

 木戸は政権中枢から再び退いた明治9(1876)年3月以降も、地租引き下げなど民心への配慮を主張した。大久保の専制支配が続く中、最大で最後の士族反乱の西南戦争が明治10(77)年2月に勃発する。そのさなかに木戸は病死し、敗れた西郷隆盛は9月に自刃した。

 維新三傑で一人残った大久保は大隈重信と伊藤博文に言う。「保守頑固な男と思っただろうが、島津公(旧習復帰を主張する久光)と西郷とに制せられて動けなかった。今後は君らと同じ進歩主義者になる」  明治11(78)年5月に暗殺の刃(やいば)にたおれたが、大久保は約束を守った。進歩的な地方自治制度の導入に断を下していたのである。

 目玉は公選制の府県会だった。府県で創設する地方税の予算を審議する議会を設け、地租5円以上を納める20歳以上の男子が選挙で議員を選ぶ仕組み。被選挙権者は地租10円以上を納める25歳以上男子だった。

 地主や自作農主体の有権者は広島県では人口の5%弱に限られたが、3年前の地方官会議で否決した公選制の導入は画期的だった。地方税導入への抵抗を和らげると共に、自由民権運動の懐柔策でもあった。

 広島県会は明治12(79)年5月、岡山県会は同年3月に初議会を開いた。旧小田県は明治9(76)年4月に備後6郡が広島県に移管され、それ以外は岡山県にとどまった。

 両県会の初代議長は広島が石井英太郎、岡山が坂田丈平だった。2人とも旧小田県出身で、民権運動指導者だった粟根村(福山市加茂町)の窪田次郎と縁が深い。石井は福山藩初の啓蒙(けいもう)所を共に深津村へつくり、坂田は臨時民撰(みんせん)議院設立要望や学習結社活動の同志だった。

 豪農層中心の府県議が地方行政に対して発言権を得た効果はてきめん。税負担軽減のため両県会は予算案をチェックし、土木費や吏員給与費、衛生・病院費など片っ端から減額修正した。

 国に対しても物言う場が欲しくなる。明治12年6月、千葉県の21歳の民権家桜井静が国会開設要望の共同行動を各府県会に呼びかけたことから火の手が上がった。後に政府内で「府県会制度の導入は時期尚早だった」(岩倉具視)との嘆き節が出るほどの事態となる。(山城滋)

(2021年12月9日朝刊掲載)

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