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連載・特集

広島世界平和ミッション 中国編 歴史を見つめて <5> 七三一 罪の証し 世界遺産化で

 ハルビンは、二十世紀初めは帝政ロシアが支配していた。欧州風の教会が今も残る街中から車で約四十分。平原に工場が点在する平房区に、「侵華日軍第七三一部隊罪証陳列館」はあった。

 「この建物そのものが七三一の本部ビルにできました」。ミッションメンバーは、地元の大学で日本語を専攻したという学芸研究員の馬天龍さん(26)の案内で、展示資料や細菌・凍傷実験室などの施設跡を見て回った。

 歴史の闇にその全容を潜める七三一は、一九三六年に編成され、生物兵器の研究開発を進めた。そして揚子江沿岸の都市でペスト菌汚染させたノミを散布した。被害者が日本政府に賠償を求めた訴訟で東京地裁は一昨年、細菌戦の事実を認定している。

戦跡を保存■

 「中国人を捕まえ、人体実験もしました」と馬さん。この戦跡一帯をユネスコの世界遺産にする計画を進めているという。九六年に登録された原爆ドームをどう見ているのか。答えはこうだった。

 「ドームは戦争の加害者の負の遺産。ここは人間が犯した罪を証明する遺産と考えています」。その言葉に、メンバーの一人井下春子さん(72)=広島市南区=は、中国政府がドームの世界遺産を支持しなかったのを思い出した。

 黒龍江省は八三年、部隊が日本敗戦の直前に爆破した施設跡を遺跡として保存。二〇〇〇年からは市と全面発掘し、注射器や陶土で作った細菌爆弾の破片など約千二百点の資料を見つけ、陳列館を拡充させた。

 メンバーは翌日、繁華街近くの市社会科学院にある七三一研究所を訪ねた。金成民所長(40)があらためて説明した。

 「日本の民間団体とも協力して資料を集め、七三一の戦争犯罪を究明し、世界遺産化で事実を広く伝えたい」。広島の市民が四月まで一年間、ボランティアで研究員を務めたともいう。東京大三年の森上翔太さん(20)=廿日市市出身=が「えっ」とうなった。中学・高校時代の恩師だった。

生存者語る■

 その席には、陳列館が人形で展示していた被害家族の生存者が待っていた。靖福和さん(70)。七三一が撤退の際にペスト菌を持ったネズミを放ったため、父と姉、弟をはじめ親族十二人が感染死した。死者は三カ村で百人を超えたという。

 「のど、足の裏が腫れれて、皆バタバタと死んでいった」。せい惨な光景を静ひつな口調で再現した。メンバーは沈うつな表情で聞き入った。

 やがて、福島和男さん(72)=広島市佐伯区=が意を決したように話した。「原爆で私も家族六人を失い、首が腫れ髪の毛が抜けました」。今度は靖さんがじっと耳を傾けた。市民団体の招きで訪日した際、原爆資料館を見学したことがある。

 感想を問われ、中国語も備える資料館の音声ガイドを例に挙げ、不満げな口ぶりを見せた。

 「自分たちの被害は世界中から訪れる人に説明しているのに、悪業は知らせていない」。福島さんの「家族を奪われた苦しみはよく分かります」との再度の言葉に、「残虐な戦争はもうしてはならない」と応じた。別れ際には握手を交わした。

 メンバーがハルビンにいたころ、省北部のチチハルでは、旧日本軍が遺棄した毒ガス砲弾の回収作業が日中共同で行われた。日本政府は七十万発があるとみる。「負の遺産」は重い。

(2004年7月30日朝刊掲載)

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