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連載・特集

広島世界平和ミッション 中国編 歴史を見つめて <7> ナンジン ヒロシマ 悲劇の街 連帯に深い溝

 記念館の朱成山館長(50)は「広島から戻ったばかりですよ」とメンバーを出迎えた。立命館大学(京都)で六月下旬にあったアジアの平和博物館の協力をテーマにした国際シンポジウムに参加した際、広島を訪れた。五度目だという被爆地訪問の印象を問うと一転、口調は変わった。

 「加害者意識に欠ける。原爆資料館がいい例です。被害だけを披露して、加害は展示していない。長崎も同じだ」。南京大虐殺の日本での受け止め方を語る顔つきは眼鏡越しにも険しかった。

 日中が全面戦争に突入した一九三七年、日本軍は首都・南京に攻め入り、占領する。日本国内はこぞって「南京陥落」を祝った。メンバーの福島和男さん(72)=広島市佐伯区=は、祝勝のちょうちん行列に町内で参加した記憶が残る。虐殺があったことを日本国民が知るのは敗戦後だ。

共感は困難■

 中国政府は九〇年代に入り「犠牲者は三十万人以上」とした。それに対し、日本の一部の政治家やメディアは反発。当時の資料から犠牲者の数に疑問を向ける歴史学者の研究を含め、朱館長は「右翼が歴史を改ざんしてウソを言っている」とばっさり切り捨てた。

 館長の横には小柄な女性が同席していた。倪翠萍さん(78)。両親や叔母家族ら八人が日本軍の手で殺されたという。自らも銃剣に刺された左肩の傷あとを見せて「私が、日本政府や軍国主義者が認めようとしない侵略のはっきりした証拠」と涙まじりに証言をした。

 メンバーの北京入りから付き添う、中国人民平和軍縮協会の女性は目頭をぬぐっていた。重苦しい雰囲気が続いた。

 福島さんが「私は原爆で孤児となった」と紹介したうえで、「倪さんが受けた残虐な行為は申し訳なく思う」と述べた。朱館長は、再び「日本は加害者であると認めるべきだ」と話し始めた。

 原爆で祖父母らを失った井下春子さん(72)=同市南区=は、語気が強まるにつれ、うなずけないとばかりに首をかしげた。発言を促されても黙った。

 広島大大学院で東洋史学を専攻する岳迅飛さん(32)=東広島市=が代わって、母国語で話した。「歴史認識の共有は難しくても、戦争の悲惨さを体験した広島と、平和のために協力し合えるのでは」。被爆の実態をせめて記念館で紹介する考えはないかと尋ねた。

 朱館長は即座に退けた。「原爆資料館の展示には共感できない。問題は政府をはじめ日本の歴史認識にある。無理だ」。広島市の平和記念式典に参列したが、こちらの式典には広島からは来ないと不満ものぞかせた。

強烈な文面■

 記念館は抗日戦争四十周年の八五年に開館した。敷地は二万八千平方メートル。掘り出した遺骨をそのままで展示し、ホールは抗日戦争時の写真を並べる。党中央から「全国愛国主義教育模範基地」に指定され、運営する南京市は三月から入場を無料としている。月に二十万人が訪れるという。

 メンバーは重い足取り取りで見終え、広場にある「和平大鐘」を見上げた。日本人からすれば目をそむけたくなる強烈な文面が刻まれている。

 岳さんは文面を訳した後、こう感想を表した。

 「民族として忘れてならない悲劇であり、国の発展を犠牲者に誓うものとみました」。一方こうも話した。「広島が原爆資料館を米軍暴行記念館と名づけていたら、世界的に知られ、平和を願う声は受け止められたでしょうか」。自問自答するような調子だった。

(2004年8月1日朝刊掲載)

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