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連載・特集

近代発 見果てぬ民主Ⅰ <13> 県議の奔走

国会開設へ府県議員が結集

 高梁川下流の左岸堤防から見渡す限りの市街地が広がる。倉敷市西阿知町西原は、140年余り前の国会開設運動で名をはせた岡山県議忍峡稜威兄(おしお・いつえ)の生地である。

 岡山県会は明治12(1879)年3月に発足。他の県議と同様に忍峡の生家も豪農と呼ばれる地主だった。河川改修で地域内移転した今の忍峡家に往時の面影はない。4代後の当主である会社員盛夫さん(49)に家伝の木箱を開けてもらうと岡山県発行の地券の束が入っていた。

 明治9(76)年発行を中心に100枚余り。耕地面積と地価、その3%の地租税額が記してある。辺り一面に田畑が広がる明治前期にタイムスリップしたような気分になる。

 千葉県の民権家が明治12年6月に呼びかけた国会開設の共同要望に岡山県会は素早く呼応した。20代半ばの忍峡議員らが山陽諸県の県議に連合会設立を働きかける。広島県会の石井英太郎議長の賛同で県議有志連合会が同年10月に発足の運びに。こうした動きを創刊間もない山陽新報が報じて強力に後押しした。

 倉敷も石井議長出身地の福山も旧小田郡。旧縁復活の種火が山陽路に燃え広がろうとする直前、岡山県の「鬼県令」こと高崎五六が待ったを掛けた。「県議名で国会開設を願い出る権利なし」と言うのだ。

 忍峡は再三抗議するも会合停止命令により断念に追い込まれた。それでも有志と結社をつくり演説会で国会開設を訴え続けた。岡山県有志人民による国会開設建言書が12月末にまとまる。忍峡は総代の一人として上京し、翌明治13(80)年1月16日に元老院へ提出した。

 建言書は、条約改正の困難に直面する時期だからこそ国会開設で人民に参政権を与えて開明の政治に参加させ、国権伸長を図るべきだと主張。人民自らが主張して民権を取りに行く覚悟を表明している。

 忍峡は東京にとどまり、地方官会議傍聴のために上京した府県会議員に結集を訴えた。同年2月22日に25府県の議員101人による会合を開催。20人余が連署した国会開設建言書を元老院に出した。(山城滋)

忍峡稜威兄
 1853~1917年。倉敷の医師が創刊した雑誌編集長を経て、明治12~13年に岡山県議。同15~17年ごろ立憲改進党員。同18年に大阪へ出て浪速銀行重役、浪速演劇社長、後に岐阜県の美濃商業銀行頭取など実業界で活躍した。

(2021年12月10日朝刊掲載)

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