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連載・特集

近代発 見果てぬ民主Ⅰ <14> 通俗日本国会新論

「国会開設 人民の奮起促す」

 岡山県議の忍峡稜威兄(おしお・いつえ)は明治12(1879)年12月末に上京し、翌13(80)年3月下旬に帰郷した。往復に1カ月かかったとしても東京の旅館に2カ月近く滞在していた。

 出費を賄う当てはあった。西南戦争後のインフレで米価が倍に急騰し、農村は好景気に沸いていた。府県議ら豪農層の民権運動は豊富な資金を得て勢いづく。脅威を感じた政府が農村から富の奪回を図ったのが松方デフレとの見方もできる。

 岡山県有志人民の総代として国会開設建言書を元老院に提出した忍峡の考え方は、明治13年7月に出版された自身の演説集「通俗日本国会新論」によく表れている。

 君主と人民代表の国会が共同で政治を行う君民同治を基本に置く。五箇条御誓文にある「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ」の具現化が国会の開設で、機は熟したと説く。

 条約が未改正で貿易損が増えて国家の独立も困難にさらされる中、国会開設で人民の奮起を促し独立維持策を定めようと主張。時期尚早論に対しては、人民の知識は国会と共に進歩すると反論している。

 御誓文の理想を追い求めた粟根村(現福山市加茂町)の窪田次郎の熱が引き継がれたと言うべきか。

 同年12月出版の「民権家列伝」に忍峡の小伝がある。総代として岡山をたつ際の決意表明を聞いた満座の人々が皆涙を浮かべたという。建言書提出の際に忍峡が岡山県下の民情を涙ながらに訴えると、元老院議官たちも感涙を催したとも記す。

 忍峡は当時26歳、同じく列伝に載る高知の士族民権家の植木枝盛23歳。国の変革に20代が情熱を燃やす全てが伸び盛りの時代だった。

 岡山に遅れること1カ月半、広島県からは御調郡選出県議が有志人民総代名で国会開設懇願建言書を出した。元老院に続々と寄せられる請願書の整理担当が広島出身者で、郷里から一通も来ないのでは面目が立たないと手を回した結果だった。

 各地の結社が連合して同年3月に国会期成同盟が生まれた。運動の火は士族から全国の豪農層へと燃え広がり、薩長藩閥に属さない官吏の共感も得た。やがて藩閥政府を身震いさせる事態となる。(山城滋)=見果てぬ民主Ⅰおわり

松方デフレ
 西南戦争後のインフレ解消のため明治14(1881)年10月、大蔵卿(きょう)に就任した松方正義が行った紙幣整理による緊縮財政政策。農産物価格は下落して農村の困窮を招き、地主への農地集積も進んだ。

(2021年12月11日朝刊掲載)

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