×

ニュース

暮らし再建 道険し 東日本大震災きょう2年半 中国地方 なお2000人避難

 生活再建への道筋が見いだせないまま、11日で2年半になる。東日本大震災の被災地から中国5県へ逃れてきた約2千人はいまなお、救いの手を必要としている。(桑田勇樹)

支援の差疑問/家族に深い溝

 ◆県議会で訴え
 広島県内で暮らす避難者でつくる「アスチカ」の2人は3日、県議会の各会派を初めて巡った。「被災地にいる人と、避難先で暮らす人に差が出ない支援を」。福島県いわき市から避難する三浦綾代表(40)=広島市安芸区=はそう訴えた。

 福島第1原発事故の被災者を支える、子ども・被災者支援法の成立から1年以上たった8月末、復興庁はようやく基本方針案を公表。外部被曝(ひばく)調査、就職や子どもの学習支援が並ぶが、対象地域は福島県の一部にとどまる。

 アスチカのメンバーは110世帯約300人。「避難先の自治体での相談窓口は続くのか」「放射線を心配して福島県以外から避難した人への支援はどうなるのか」。湧き出る疑問、不満への答えは得られていない。

 「被災者それぞれが苦渋の決断を重ねてきた。いまの暮らし方を認めてほしい」と三浦代表。13日までの復興庁の意見公募では、長期的に避難せざるを得ない被災者の意見も反映するよう求める。

 ◆帰郷か、移住か
 宮城県石巻市から避難した黒沢俊広さん(35)=南区=は、広島市の自動車工場で期間社員として勤め、2年が過ぎた。支援を受ける身のままではいたくないと、運送会社から転職。やりがいを感じるが「なぜ俺はここにいるんだ」とも思う。

 ことし3月、離婚した。放射線が心配で2011年春、長男を妊娠中だった妻、長女と広島へ来た。自分の両親はさみしがって「戻ってこい」と言い続けた。妻の両親は「落ち着くまでは広島に」。経済的な不安もあり、溝は埋まらなかった。

 来夏には、いまの会社との契約期間が終わる。帰郷すれば、津波のがれき撤去などの仕事に就ける。ただ、広島には元妻や子がいる。「また一緒に暮らせるかもしれない」。そう思うと、決心がつかない。

 ◆関心の風化
 福島県南相馬市から避難した衣山弘人さん(55)=南区=は、11年秋からほぼ毎日、中区の原爆ドームそばで署名活動を続ける。原発の是非を問う国民投票の実現を目指す。

 自宅は原発から18キロ。雑貨の卸売りを営んでいたが、倉庫が津波に流された。2年前は「福島からです」と声を掛けると立ち止まる人が多かったが、今はまばらに。「事故は収まったんじゃないの、と問う人もいる。漏れ続ける汚染水など現状を知らせたい」

 被爆の惨状を次世代に語り継ぐ被爆者と交流する中で、自身の体験を被爆地で話したいと考え始めた。「二度と避難者を出してはいけない。そのために、関心を持ち続けてもらわなければ」。署名は今夏、2万2千人分に達した。

(2013年9月11日朝刊掲載)

年別アーカイブ