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連載・特集

広島世界平和ミッション 韓国編-陜川原爆被害者福祉会館を訪ねて 59年の壁 辛苦なお続く

 「広島世界平和ミッション」(広島国際文化財団主催)の第二陣は韓国を巡る中で、もう一つのヒロシマを訪ねた。静かな山あいにたたずむ韓国慶尚南道の陜川(ハプチョン)。日本が韓国を併合した一九一〇年代に、広島へ渡って成功したといわれる出身者と親族が引き金となり、後を追う者が続いた。「名前は問うても故郷は問わぬ」との言い伝えがあったほど、戦前の広島では陜川出身者が占めた。そして原爆に遭った。海外最大の被爆者がいる韓国で九六年に開館した「陜川原爆被害者福祉会館」の今を見た。(文 編集委員・西本雅実、写真 荒木肇)

手当は昨年から

 メンバーの一人、在韓被爆者の支援を続ける井下春子さん(72)=広島市南区=が、韓国唯一の被爆者施設を訪ねるのは三年ぶり。女性らが「あー、井下さん」と日本語で呼びかけてきた。日韓両政府が八〇年から八六年にかけ実施した渡日治療で入院した際に世話になったり、その後も彼女を頼って広島を訪ねた人たちだった。

 金全伊さん(81)もその一人。顔をくしゃくしゃにして近づいた。

 「日本からお金がくるようになった」という。在外被爆者にようやく昨年から支給されている健康管理手当(月額三万三千九百円)のことである。

 金さんは夫と広島市南観音町(西区)で被爆した。無一文で帰国し、母国の言葉も習慣も分からず、「そりゃあ並大抵の苦労ではなかった」。広島弁のイントネーションが残る。

 日本の植民統治の解放後、陜川郡は南北分断による朝鮮戦争の戦場にもなった。この夏に日本で公開され話題を呼んだ韓国映画「ブラザーフッド」は陜川でロケをしたものだ。

 亡き夫の鄭基璋さん(九七年死去)は、韓国原爆被害者協会の陜川支部長を長く務め、郡内の被爆者実態を掘り起こした。鄭さんが戸籍や面接調査から一人で集めた記録を基に、現在の広島大原爆放射線医科学研究所が一九七八年にまとめた報告書がある。

 それによると、陜川の被爆者は確認されただけで五千一人、うち生存者は三千八百六十七人と当時の郡内人口の2・5%に当たった。陜川が「韓国のヒロシマ」と呼ばれるゆえんだ。

 それから四半世紀の今、陜川の被爆者は、五月現在で五百四十二人。被爆後の辛苦が体にこたえ、生存者もどんどん亡くなっているのが分かる。

入居者平均78歳

 町の中心から東へ約五キロの山あいに立つ会館には、郡内出身の六十一人を含む七十六人(うち一人は長崎被爆)が入居している。平均年齢は七十八歳となり、女性が五十八人。夫を亡くし、また子どもらが都会に出た人が多かった。

 「寝たきりになって入居を希望しても二年は待たなくては…」。広島市の江波地区(中区)で被爆した現支部長の沈鎭泰さん(61)は、老いる被爆者への援護の充実が急務だという。漢方薬一つ買うにしても、日本政府からの健康管理手当を受給しているかどうかで違いは大きい。

 支部や大韓赤十字社によると、被爆者健康手帳の未取得者は陜川が二百二十人、韓国全土で六百七十八人を数える。申請には渡日しての手続きが要る。しかし高齢のため無理が利かなかったり、証人を添えての被爆の証明ができない人たちが増えている。書類を送っての審査待ちは四百五十人。日本での被爆から五十九年という歳月が、厚い壁となって在韓被爆者の前に立ちふさがる。

 また手帳があっても、日本では受けられる最新治療への補助はない。厚生労働省は、今年十月をめどに在外被爆者が居住国で支払う医療費を助成するが、どこまでカバーするかは不透明だ。

訪朝し話し合い

 そして、日本と国交のない北朝鮮には、外務省の三年前の聞き取り調査によると九百八十二人の被爆者がいるとされる。

 平和ミッションに加わった元協会長の郭貴勲さん(80)は、九月に北朝鮮を訪れる。現地の赤十字社の関係者らと被爆者援護について腹を割って話し合うつもりだ。

 「来年は被爆六十周年の節目でしょ。北の人たちを含め在外被爆者の問題を解決する機会にしなくてはいけない」。会館でもひとしきり強調した。訪朝は「被爆者はどこにいても被爆者」と訴えてきた信念からでもある。

(2004年8月16日朝刊掲載)

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