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社説・コラム

[歩く 聞く 考える] 論説委員 森田裕美 写真家 樋口健二の仕事

底辺から問う 社会のひずみ

 痩せ細り、息は絶え絶え。激しくせき込み、たんつぼを手放せない患者たち…。

 竹原市の忠海病院(現呉共済病院忠海分院)に入院していた毒ガス被害者たちの姿である。報道写真家の樋口健二さん(84)が1970年に撮影し、「毒ガス島」(83年、三一書房)に収めた写真を、初めて目にしたときの衝撃は忘れられない。

 沖合の大久野島には、29年から敗戦近くまで旧陸軍の毒ガス工場があった。島で働いた工員や動員学徒は、戦後四半世紀をへた当時も、健康被害に苦しみ続けていた。だが、そんな実情を知る人は、当事者や関係者以外にほとんどおらず、患者たちは高度経済成長の裏で、国や社会から捨て置かれた存在だった。生々しい痛みを伝える写真に、身を切られる思いがした。

 公害、原発労働者、心身に傷を負った元日本軍兵士…。樋口さんは毒ガス被害者以外にも、戦後の日本で社会の片隅に追いやられた人々を追い続けてきた。ことしは自伝「慟哭(どうこく)の日本戦後史」(こぶし書房)を含む著書2冊を刊行。その仕事ぶりに密着した映画「闇に消されてなるものか 写真家・樋口健二の世界」(永田浩三監督)も制作・上映されるなど、その歩みがあらためて注目されている。

 自ら「売れない写真家」を名乗り、社会の暗部を暴く重いテーマに向き合い続けてきたのはなぜか。直接聞いてみたくて、東京都国分寺市の樋口さん宅を訪ねた。

 「写真の戦後史に空白をつくりたくない」。そんな思いが樋口さんの活動を支えてきたのだという。

 長野県出身の樋口さんは高校卒業後に農家を継ぐ。だが生活は苦しく、東京への出稼ぎや川崎市の製鉄工場で、「底辺労働者」として働いた。

 ある日、知人の勧めで足を運んだ、東京・銀座のロバート・キャパ展が、人生の転機となる。「戦場だけでなく、銃後の民衆の姿を見事に捉えたキャパの写真に、震えるような感動を覚えた」そうだ。自らが味わった「底辺労働者」の視点から、写真を撮ろうと決意。専門学校の門をたたいた。

 卒業後、大気汚染が深刻化していた三重県四日市市で、ぜんそくに苦しむお年寄りが自ら命を絶ったという新聞記事を目にする。いてもたってもいられず、現地へ取材に通ううち、ぜんそく患者から奇妙な話を聞く。「広島の忠海にわしらと同じように肺機能をやられた人たちがようけおる」というのだ。

 70年、初めて訪ねた忠海で「地図から消された島」だった大久野島や、毒ガス障害に苦しむ患者の実情を知る。以来13年にわたって取材を続け、まとめたのが「毒ガス島」である。2015年には増補新版として新たな写真も加え、忘却や風化も世に問うた。

 同時に追い続けたのが、被曝(ひばく)しながら原発で働く下請け労働者たちである。77年には、定期検査中の日本原子力発電(原電)の敦賀原発(福井)内部に入り、原発炉心部で働く作業員を撮影。「最底辺」に置かれた労働者たちの危険な手作業によって、原発が成り立っていることを世に知らしめた。

 世間はクリーンなエネルギーとして、原子力をもてはやしていた時代だ。原発労働の闇を告発した樋口さんには刃物が送りつけられ、脅迫電話も相次いだ。それでも負けなかったのは「撮って伝えなければ問題が闇に葬られてしまう」から。

 逆に「残しておけば誰かが目を向けてくれる」とも信じていたという。実際、東京電力福島第1原発事故後には、ぶれずに告発を続けてきた樋口さんの仕事に光が当たり、過去の写真集は相次ぎ復刊された。国内外から、講演の依頼も殺到するようになった。

 樋口さんが撮り続けた写真はどれも、大きな歴史の文脈では語られない、一断面を浮かび上がらせる。

 それらをあらためて眺めていると、「戦争も公害も原発労働者も問題の背景には、弱者を利用し、切り捨ててきた日本社会の差別構造がある」と断じる樋口さんの言葉が、説得力を持って響く。そのひずみは現代にも通じるのではないか。

 国家や権力にとって都合の悪い出来事は闇に葬られやすい。私たち市民にとっても、負の歴史や社会のひずみは直視しづらいものだ。それでも樋口さんのように向き合い続けることが、未来の選択を誤らないための道しるべになる。闇から闇へと葬らせない―。それはペンを握るわれわれの役割でもある。

(2021年12月16日朝刊掲載)

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