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社説・コラム

『想』 寺岡慧(てらおか・さとし) 阿部正弘 日本の恩人

 2022年に福山城は築城400年を迎える。初代城主、水野勝成は徳川家康のいとこであり、当時でいえば姫路城をもしのぐ壮大な城を築く一方で、上水道を整備したり、海運振興を目指して運河を建設したりして城下町づくりにも尽力した。さらに治水や干拓、イグサや綿花栽培など新たな産業振興によって、福山の経済発展の礎を築いたといっても過言ではない。

 その業績を顕彰する声は節目の年を前に高まるばかりだ。それはよいのだが、福山藩阿部家7代藩主の正弘に対する評価がこれに比して地元でも低いことがかねて不満であった。正弘は25歳で徳川幕府の老中、27歳で老中首座となった。1854年に不平等条約だったとの批判もある日米和親条約を結んだことや、全国的な飢饉(ききん)や一揆の頻発で正弘の治世までもが悪い印象を持たれていたことも要因だろう。

 しかし、当時の世界情勢をつぶさに見たとき、正弘の役割がいかに重く、その決断がその後の日本の行く末にどれだけ大きな意味を持っていたかが分かるのである。正弘の時代は欧米列強によるアフリカ、南アメリカ、アジアの植民地化体制が完成する過程であった。国内では攘夷(じょうい)派が台頭する中で、未曽有の国難に立ち向かわねばならなかった。正弘は海防強化のため大型汽船の建造、大砲製造のための反射炉建設、洋学禁止令を解くなどの先進的な施策、大胆な人材登用などの改革を矢継ぎ早に行う。

 一方で米国だけでなく諸外国とも次々に和親条約を結び、国際協調路線へとかじを切った。当時の交渉の記録を見れば、幕府側がいかにしたたかに国益を守ろうとしていたかが分かる。55年、正弘は堀田正睦に老中首座を譲り、その2年後に39歳でこの世を去る。もしも攘夷派の主張の下に列強との戦争に突き進んでいたなら日本自体の植民地化も避けられなかったのではないだろうか。

 いわば「水野勝成は福山の恩人、阿部正弘は日本の恩人」なのである。(東京女子医科大名誉教授=福山市)

(2021年12月17日中国新聞セレクト掲載)

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