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連載・特集

広島復興の姿 次なる一歩 平和都市法70年

 広島平和記念都市建設法は広島市が原爆の惨禍から復興する支えとなった。第1条で「恒久の平和を誠実に実現しようとする理想の象徴として、広島市を平和記念都市として建設する」とうたい、公布、施行されてから70年。平和記念公園(中区)の建設をはじめ、核兵器廃絶を願う被爆地の思いを形にしてきた。今、都心は官民による開発の機運が高まり、にぎわい創出に焦点が当たる。そのまちづくりにヒロシマの理念を反映させられるのか。ビジョンの提案と、市民との共有が問われている。(永山啓一、江川裕介)

「十字軸」非核の思い根付く 海外発信も鍵

 平和記念公園の原爆資料館から原爆慰霊碑、原爆ドームを結ぶ南北軸。そして、市街地を貫く平和大通りの東西軸。二つの軸が垂直に交差する象徴的な十字軸を中心に、デルタへと街路が格子状に広がる。1945年8月6日の原爆投下から力強く立ち上がった広島の街には、建築家丹下健三氏(13~2005年)が描いた平和都市像が息づく。

 南北軸を巡っては、資料館から見たドームの背景に何も建物が見えない眺望を目指し、17年3月から議論が続く。19年1月、市は景観審議会の答申を踏まえた「あり方」を示し、その冒頭で「平和都市広島を象徴する景観として、次世代に引き継ぐべき大切な存在」と意義を説いた。

 7月上旬には、審議会専門部会が建物の高さ規制など手法の検討を始めた。部会長の森保洋之・広島工業大名誉教授(都市計画)は「丹下先生の思いがこもったグランドデザインを、市民共有の宝として育てていきたい」と力を込める。

 平和都市法に基づく広島平和記念都市建設計画は、現在のまちの骨格を決めた。その南北軸の延長にあたる中央公園のエリアを対象に、市は今秋にも相次ぎビジョンづくりを始める。戦後の市民を勇気づけた広島東洋カープの本拠地だった旧市民球場の跡地は、屋根付きイベント広場を中心とする整備イメージを基に活用計画をつくる。自由・芝生広場に関しては、サッカースタジアム建設の基本計画を策定する。

 東西軸でも、ひろしまフラワーフェスティバルの舞台となる平和大通りの緑地を使い、民間活力によるにぎわいづくりを検討する。

 市都市計画担当の萬ケ原伸二部長は「一地方都市が世界平和の原点と位置付けられた法に光を当て、あらゆる人にいま一度、思いをはせてもらいたい」と話す。

 資料館の見学をはじめ、広島を訪れる外国人は増えている。被爆で何が起き、どう復興したのか―。実態を知りたい世界中の人々への発信とも連動する。「平和記念公園だけではなく、点在する被爆建物の活用など、街全体として受け入れのプラットフォームを整える必要がある」と、景観審議会の会長も務める杉本俊多・広島大名誉教授(建築史)は指摘する。「平和記念公園の設計コンペの時のように、街をどう育てていくか世界中からアイデアを募ってはどうだろうか」

 市民とあらためて理念を共有し、将来ビジョンの議論を深める70年としたい。

特別法 国の支援手厚く 公園一帯 整備進む

 被爆後「75年間は草木も生えぬ」と言われた広島市を、国を挙げて世界平和の象徴として再興させる理想を掲げたのが、広島平和記念都市建設法だった。

 被爆翌年の1946年、広島市は復興都市計画を決定するが、事業は思うように進まなかった。人口減少などで税金は集まらず、国に財政支援や国有地の払い下げを要望しても特別扱いはなかった。

 そこで47年に施行されたばかりの新憲法の95条を使うアイデアが浮上。特定の自治体だけに適用する特別法をつくることができる規定で、市の住民投票で過半数の同意が必要だった。法案は国会での可決後、49年7月にあった住民投票で、投票率65%、賛成票91%の結果を得て成立した。

 翌50年には朝鮮戦争が勃発。連合国軍総司令部(GHQ)の「平和」をテーマにした集会などへの締め付けは強まり、同年の平和祭(現平和記念式典)も中止になるなど、際どいタイミングでの成立だった。

 市は法の理念に沿って、新たに広島平和記念都市建設計画をつくった。爆心地に近い中島地区を平和記念公園とし、平和大通りを軸とした道路を整備。南北に貫く河川を生かした河岸緑地の構想も打ち出した。平和記念公園のデザインは、コンペで1等になった建築家の丹下健三氏のグループの案が採用となった。

 国からの支援も約束された。旧軍用地などの無償譲与は計34・5ヘクタールに上り、基町高や市民病院が建つ。現在の中央公園(44・1ヘクタール)は貸与が続く。補助金の優遇も大きく、法制定当時の浜井信三市長は「打ち出の小づち」と表現した。

 平和記念公園近くの平和大橋や西平和大橋は欄干を世界的彫刻家のイサム・ノグチ氏がデザインし、国が直轄事業として建設。近年では2000年に同法に基づき、旧日本銀行広島支店が市に無償貸与された。

<広島平和記念都市建設法の主な内容>

・恒久平和を誠実に実現しようとする理想の象徴として広島市を平和記念都市として建設する(第1条)

・恒久平和を記念すべき施設と平和都市にふさわしい文化施設をつくる(第2条)

・国と地方公共団体の関係機関はできる限りの援助をしなければならない(第3条)

・国は必要と認める場合、国有財産を無償で譲与できる(第4条)

・市長は市民と協力し、平和都市の建設に向けて不断の活動をしなければならない(第6条)

<広島市の復興の歩み>

1945年 8月 6日午前8時15分、米国が広島市に原爆投下
  46年 1月 市が復興局を設置
      2月 市復興審議会の初会合
      4月 道路や公園、土地区画整理の広島復興都市計画を決定。復興5カ年計画案を作成
     10月 市が緑地帯と公園予定地の案を発表。原爆記念公園など82カ所の計350万平方メートル
  48年 6月 市、爆心地に平和記念公園の建設を決める
  49年 5月 広島平和記念都市建設法案と長崎国際文化都市建設法案が国会で可決
      7月 広島平和記念都市建設法の住民投票で、賛成が圧倒的多数を占める
      8月 6日、広島平和記念都市建設法が公布・施行▽平和記念公園設計懸賞募集で丹下健三グループの作品が1等当選
  52年 3月 市、広島平和記念都市建設計画を決定。平和記念公園や中央公園、河岸緑地、平和大通りを軸とした碁盤型の街路網などを定める
      6月 平和大橋、西平和大橋の完工式▽中国財務局から市へ牛田旧軍用水道水源地を無償譲与
  53年 9月 広島平和記念都市建設を促進する「広島市建設促進委員会」創立総会を東京で開催
  54年 4月 平和記念公園完成
  55年 3月 地元財界人有志の寄付による市公会堂が開館
      6月 平和記念館開館
      8月 原爆資料館開館。資料100点を展示
  56年 9月 広島平和記念都市建設事業東部・西部復興土地区画整理審議会を設置
  57年 7月 市民球場の完工・点灯式
      8月 平和記念公園と平和大通り緑化のための供木運動を展開
  58年 3月 市が原爆ドーム周辺に残る105戸の立ち退きの強制執行に着手
      4月 広島復興大博覧会を開催
  59年11月 市が広島平和記念都市建設法10周年の記念感謝式典を東京と平和記念館で開催
      61年 9月 西区観音新町に広島空港が開港
  65年 5月 平和大通りの整備完了
  66年 7月 市議会が原爆ドームの永久保存を決議
  67年 8月 原爆ドーム保存工事が完了
  68年 4月 基町再開発事業始まる
  69年 8月 西部復興土地区画整理事業(第1工区)の換地処分公告
  70年 1月 東部復興土地区画整理事業の換地処分公告
  72年 1月 西部復興土地区画整理事業(第2工区)の換地処分公告
  74年10月 バスセンターが入る広島センタービルが開業
  75年 8月 原爆資料館が改装オープン
  78年10月 基町地区再開発事業の完成記念式
  80年 4月 広島市が全国10番目の政令指定都市に移行
  83年11月 原爆投下の目標になった相生橋の架け替え工事完了
  85年 3月 市が広島県五日市町を合併。人口が100万人を超える
  86年 5月 広島国際会議場建設のため市公会堂の解体開始
  89年 7月 広島国際会議場オープン
  90年 3月 原爆ドームの第2次保存工事が完了
  91年 8月 全面改装工事を終えた原爆資料館が開館
  94年 6月 原爆資料館の改築を終え、東館開館
      8月 アストラムラインが営業運転開始
     10月 広島アジア大会
  96年12月 原爆ドームの世界遺産登録が決定
2000年 7月 市、旧日本銀行広島支店の無償貸与を受ける
  01年 4月 紙屋町地下街シャレオが開業
  02年 8月 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館が開館
  03年 3月 原爆ドームの第3次保存工事が完了
  09年 3月 マツダスタジアム完成
  12年 2月 旧市民球場の解体完了
     11月 広島西飛行場が廃港となり、広島ヘリポートの供用開始
  15年 6月 松井一実市長がアストラムライン西風新都線の延伸を発表
  16年 7月 原爆ドームの第4次保存工事が完了
  17年 4月 原爆資料館東館がリニューアルオープン
  19年 4月 原爆資料館本館がリニューアルオープン
      5月 市と県、広島商工会議所がサッカースタジアム建設の基本方針を策定

(2019年7月17日朝刊掲載)

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