広島世界平和ミッション 英国編 市民の力 <6> 戦争被害者 憎悪と許し 思いに落差
04年10月8日
「今でも許せない」。
第二次世界大戦中のユダヤ人大量虐殺(ホロコースト)の被害者アレック・ハーシュさん(76)と懇談した夜、第三陣メンバーは寝付けなかった。彼の体験が悲惨だったからだけではない。加害者への消えぬ憎悪のすさまじさ故でもあった。
リーズ市内のホテルの一室。ポーランド生まれのハーシュさんは大きな目で前を見据えながら、一九四〇年に十一歳でナチス・ドイツ軍に捕らえられてから、孤児になって英国に引き取られるまでの戦争体験を一気に話した。
「生き地獄」■
「ユダヤ人というだけで、服の胸に星をつけさせられ、強制収容された。子どもだった私も、父と炭鉱労働を強いられた。飢えや暴力で同じ収容所のほとんどが死んだ。父もだ」。野太い声に憎しみの思いがにじむ。
四四年、ロシアの収容所などを経て母国のアウシュビッツ収容所へ。ガス室送りから逃れたものの「生き地獄」は続いた。
「この日から私は名前さえ失った」。認識番号を腕に入れ墨され、髪をそられ、囚人服を着せられた。過酷な労働、虐待、不衛生で劣悪な環境。自殺者は後を絶たなかった。戦後、孤児として英国に引き取られた後、一人の姉を除き親族八十一人が殺されたと知った。
一時間以上に及ぶ体験に耳を傾けたメンバーの目はうるんでいた。社会福祉士の山田裕基さん(27)が穏やかな口調で尋ねた。「収容所では何を希望に生きたのですか」
「とにかく生きたかった。本能だよ」。そして続けた。「民族や宗教が違っても人はみな生きる権利がある。認め合って生きなくてはならない」。つらくて胸に封じ込めていた体験を十年前から、学校などで子どもたちに語っているという。
被爆者の細川浩史さん(76)も、十年ほど前まで他人に体験を語ることはなかった。できなかった。しかし、年を重ねるにつれ被爆の事実と、人を狂気に駆り立てる戦争について「体験者が伝えなければ…」との思いがわいてきた。細川さんは、二人の体験を重ねながら「心の変化もあったでしょう」と問いかけた。
ハーシュさんは「第二次大戦中に生きていたドイツ人は今も絶対に許せない。私たちがいかにひどい目に遭ったか、若い世代に伝えていかなくてはならない」と応じた。
戦争体験を伝えるのは同じ悲劇を繰り返さないためで、恨みを継承するためではないはず―。ハーシュさんの発言に、メンバーは違和感を感じた。山田さんが問うた。「イラクでの戦争をどう見ますか。あなたが大戦中のドイツ人を許せないのと同じように、今イラクで家族を失ったり、障害を負ったりした人は、絶対に米国人や英国人を許せないと思う」
ハーシュさんは「独裁者のサダム・フセインを取り除かねばならなかった」と、英米の軍事介入の正当性を強調した。
山田さんは食い下がった。「独裁政権を倒すためなら、罪のない市民を傷つけてもいいと思いますか?」
話は平行線■
「フセイン政権はどうしても倒さなければならなかった。それに現代の戦争はピンポイント(精密)爆撃で被害は最小限だ」。ハーシュさんは声を荒げた。議論は結局、平行線のまま終わった。
交流を終えた細川さんの表情は沈んでいた。「じりじりと死が忍び寄る壮絶な体験は想像を絶する苦痛だったに違いない」。独裁者に拒否反応を示すのも分かるという。「でも正直ショックだ。だからといって、被爆者の私が米国を許し、戦争を否定するのだから、そっちも同じようにしろとは言えないし…」
◇
「憎しみや暴力の連鎖は断ち切れるのか」―その答えを求めて一行は英国から、今年三月に列車爆破テロ事件があり、イラクから軍撤退の道を選んだスペインに向かった。(文・森田裕美 写真・田中慎二) =英国編おわり
(2004年10月8日朝刊掲載)
第二次世界大戦中のユダヤ人大量虐殺(ホロコースト)の被害者アレック・ハーシュさん(76)と懇談した夜、第三陣メンバーは寝付けなかった。彼の体験が悲惨だったからだけではない。加害者への消えぬ憎悪のすさまじさ故でもあった。
リーズ市内のホテルの一室。ポーランド生まれのハーシュさんは大きな目で前を見据えながら、一九四〇年に十一歳でナチス・ドイツ軍に捕らえられてから、孤児になって英国に引き取られるまでの戦争体験を一気に話した。
「生き地獄」■
「ユダヤ人というだけで、服の胸に星をつけさせられ、強制収容された。子どもだった私も、父と炭鉱労働を強いられた。飢えや暴力で同じ収容所のほとんどが死んだ。父もだ」。野太い声に憎しみの思いがにじむ。
四四年、ロシアの収容所などを経て母国のアウシュビッツ収容所へ。ガス室送りから逃れたものの「生き地獄」は続いた。
「この日から私は名前さえ失った」。認識番号を腕に入れ墨され、髪をそられ、囚人服を着せられた。過酷な労働、虐待、不衛生で劣悪な環境。自殺者は後を絶たなかった。戦後、孤児として英国に引き取られた後、一人の姉を除き親族八十一人が殺されたと知った。
一時間以上に及ぶ体験に耳を傾けたメンバーの目はうるんでいた。社会福祉士の山田裕基さん(27)が穏やかな口調で尋ねた。「収容所では何を希望に生きたのですか」
「とにかく生きたかった。本能だよ」。そして続けた。「民族や宗教が違っても人はみな生きる権利がある。認め合って生きなくてはならない」。つらくて胸に封じ込めていた体験を十年前から、学校などで子どもたちに語っているという。
被爆者の細川浩史さん(76)も、十年ほど前まで他人に体験を語ることはなかった。できなかった。しかし、年を重ねるにつれ被爆の事実と、人を狂気に駆り立てる戦争について「体験者が伝えなければ…」との思いがわいてきた。細川さんは、二人の体験を重ねながら「心の変化もあったでしょう」と問いかけた。
ハーシュさんは「第二次大戦中に生きていたドイツ人は今も絶対に許せない。私たちがいかにひどい目に遭ったか、若い世代に伝えていかなくてはならない」と応じた。
戦争体験を伝えるのは同じ悲劇を繰り返さないためで、恨みを継承するためではないはず―。ハーシュさんの発言に、メンバーは違和感を感じた。山田さんが問うた。「イラクでの戦争をどう見ますか。あなたが大戦中のドイツ人を許せないのと同じように、今イラクで家族を失ったり、障害を負ったりした人は、絶対に米国人や英国人を許せないと思う」
ハーシュさんは「独裁者のサダム・フセインを取り除かねばならなかった」と、英米の軍事介入の正当性を強調した。
山田さんは食い下がった。「独裁政権を倒すためなら、罪のない市民を傷つけてもいいと思いますか?」
話は平行線■
「フセイン政権はどうしても倒さなければならなかった。それに現代の戦争はピンポイント(精密)爆撃で被害は最小限だ」。ハーシュさんは声を荒げた。議論は結局、平行線のまま終わった。
交流を終えた細川さんの表情は沈んでいた。「じりじりと死が忍び寄る壮絶な体験は想像を絶する苦痛だったに違いない」。独裁者に拒否反応を示すのも分かるという。「でも正直ショックだ。だからといって、被爆者の私が米国を許し、戦争を否定するのだから、そっちも同じようにしろとは言えないし…」
◇
「憎しみや暴力の連鎖は断ち切れるのか」―その答えを求めて一行は英国から、今年三月に列車爆破テロ事件があり、イラクから軍撤退の道を選んだスペインに向かった。(文・森田裕美 写真・田中慎二) =英国編おわり
(2004年10月8日朝刊掲載)