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連載・特集

広島世界平和ミッション スペイン編 熱い息吹 <1> ゲルニカ 2つの悲劇 重なる思い

 広島国際文化財団が派遣する「広島世界平和ミッション」の第三陣メンバーは、最後の訪問地スペインに入った。この国の有権者は今年三月、首都マドリードでの列車爆破テロ後の総選挙で新政権を誕生させ、イラクから軍隊を撤退させる道を選んだ。メンバーはテロ被害者ら多くの人々との交流を通じて被爆体験を伝えながら、内戦、独裁、テロの試練を乗り越え、平和を希求するスペイン市民の「熱い息吹」に触れた。(文・森田裕美 写真・田中慎二)

 スペイン北部バスク地方の州都ビルバオから車で東へ約四十分。メンバーは山あいの道を抜け、人口約二万人のゲルニカに着いた。

死者数不明■

 パブロ・ピカソの大作でその名を世界に知られるゲルニカは、一九三七年四月二十六日、スペイン内戦でフランコ将軍を支持したナチス・ドイツ軍によって、無差別空爆を受けた。当時の人口は約六千人。が、内戦で疎開して来た人も多く、実数は不明のままだ。死者数も五百―千人といまだにはっきりしない。

 到着直後にあった市役所での記者会見。「ヒロシマの声を広く伝える機会になった」。そう喜ぶ被爆者の細川浩史さん(76)や胎内被爆者の石原智子さん(58)らメンバーは、会見を終えるとバスク州政府や大学などでつくる研究センター「ゲルニカを忘れまい」の事務所を訪ね、空爆の生存者四人と体験などを語り合った。

 「月曜日で良い天気でした。朝から飛行機が飛んできて、そのたびにサイレンが鳴って避難しました」。当時十七歳の学生だったミレン・サバラさん(84)が、四時間に及ぶ爆撃の様子を早口のバスク語で話し始めた。

 「午後四時前、橋に大きな爆弾が落ち、避難した教会も爆撃されました。空爆に巻き込まれるなんて当時は考えもしなかった」

 ゲルニカには、歴代のスペイン国王がバスクの自治を宣誓した「ゲルニカの木」があり、バスク人の心のよりどころだった。軍需工場のあるビルバオにも近く、フランコ軍は敵対するバスク人に心理的な打撃を与えるにはゲルニカを壊滅させるのが最良の方法と考えたという。

 「爆撃は民家や人を狙った残虐なものでした。教会に避難していた友人がロバを助けようと外に出た瞬間、戦闘機から撃たれてしまって…」

 サバラさんはいすから立ち上がり、木から木へ身を隠しながら逃げた体験を、昨日の出来事のように振り返る。「私はけがはしなかったけれど、腕や足がちぎれた死傷者をたくさん見ました」

 原爆で焦土と化した広島の街や、やけどを負った被爆者の写真を示しながら細川さんとともに体験を語った石原さんは、「戦争の恐怖や瀕死(ひんし)の人たちを助けられなかった悔しさ、罪の意識は被爆者と同じですね」と両親の体験と重ねる。

独に招かれ■

 ドイツ政府は九七年、ゲルニカに対し正式に謝罪した。当時まだ生まれたばかりだったイツヤル・アルファネギさん(67)は数年前、研究センターの活動の一環でドイツに招かれた。

 「私たちの町を焼いた国へ最初は行きたくなかった」とアルファネギさん。しかし、対話を重ねるうちに「過去を反省して平和な世界にしようと努めるドイツ人の考えも分かり、私の思いも理解してもらえました」としみじみと語った。

 「私はあの日を忘れません」とサバラさんは続けた。「でも被害を与えた方にもその痛みは残り続けるでしょう。それが戦争です。繰り返してはなりません」。細川さんも大きくうなずいた。

(2004年10月17日朝刊掲載)

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