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連載・特集

[ヒロシマの空白 街並み再現] 桜並木の土手 患者憩う空間

基町の第二陸軍病院 看護師の娘が写真保管

地獄絵に一変 多数の負傷者

 広島城を含む基町(広島市中区)と周辺は、旧陸軍施設が集まる「軍都広島」を象徴する一帯だった。サッカースタジアムの建設が予定される中央公園広場にはかつて「中国軍管区輜重(しちょう)兵補充隊」が置かれ、被爆遺構が今年出土した。その北隣にあったのが、広島第二陸軍病院である。看護師だった山口(旧姓小原)礼子さん(2015年に87歳で死去)の遺品として、敷地内で撮られた写真を娘が大切に保管している。(金崎由美)

 旧太田川(本川)沿いの並木道で、柔らかな表情を浮かべる17歳の山口さん。「患者避難所」の看板が見える。奥右の三角屋根は、原爆資料館によると対岸の寺町の寺院だという。広島原爆戦災誌は「桜並木の長い堤防は美しく、入院患者の魚釣りや散策に絶好の場」だったと記す。ベンチで同僚2人と笑みを浮かべる一枚は、背後に横川橋が写る。

 山口さんは現在の下関市豊北町出身。日本赤十字社山口県支部が所蔵する資料によると、1944年10月に「第七百十五救護班」の一員として陸軍病院の結核病棟に赴いた。45年7月22日、三次分院の開設に伴い配置換えとなった。

一度だけ口開く

 それから半月後の8月6日、広島は原爆で壊滅した。山口さんは翌日、救護活動のため三次から市内に入った。爆心地から約800メートルの病院では職員330人、入院患者750人の多くが亡くなったとされる。むしろやトタンで川土手に設営された臨時救護所に、多数の負傷者が収容された。山口さんは三次に戻って以降も、広島から運ばれてきた患者の看護に忙殺された。

 戦後は結婚して東京で暮らした。「母から広島について聞かされたことは、晩年までありませんでした」と長女の別所智子さん(60)=東京都町田市=は振り返る。製薬会社で医薬品開発に携わる忙しい日常で、親の戦争体験に関心を抱くこともなかったという。

 11年前、山口さんは一度だけ重い口を開いた。小学6年だった別所さんの長女(23)から、学校の宿題で戦争体験について尋ねられた時だった。川土手に横たわり、死にゆく負傷者の隣で仮眠しながら救護したこと。水を求められ、負傷者の口に注ぐと息絶えたこと―。川岸では兵士が遺体を集めて焼いていた。「あんなに惨めな死に方はない。かわいそうだったよ」

 別所さんにとって、初めて知る17歳の母の姿だった。当時の歩みをたどろうと、三次市や山口さんが一時期勤めた柳井市などを訪れ、資料と証言を集めるようになった。古いアルバムの中に写真を見つけ、自ら撮影場所を調べた。

 母が心の奥底に抱えてきた傷は、想像以上に深かった。別所さんが知り得た情報について話すと「一体、どうしたいのか」と怒った末、泣き疲れて眠りだした。「被爆体験の継承」とは何だろう、と悩んだ。知己を得た被爆者から「それでも、知ろうとすることをやめないで」と励まされ、救われた。

今は高層住宅群

 あの日、地獄絵図に一変した本川沿いは、戦後に「原爆スラム」とも呼ばれた住宅密集地になった。再開発事業で住民が立ち退きに遭い、一帯は基町アパートの高層住宅群に変貌。再び遊歩道と桜並木が配され、市民の憩いの場となった。

 別所さんは毎年8月6日、第二陸軍病院の慰霊碑が立つ川土手を訪れ、慰霊祭に参列している。「母がみとった多数の負傷者。三次へ移動した母と入れ替わりで配置され、被爆死した看護師。ここで失われた命を思い黙とうしています」

(2021年12月27日朝刊掲載)

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