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社説・コラム

社説 年の初めに考える 「国民主権」取り戻そう

 新型コロナウイルスへの警戒を緩められないまま、再び新しい年を迎えた。新たな変異株オミクロン株が全国に広がり、各地で市中感染を起こしている。コロナに苦しむ日々からは、3年目に入った今年も抜け出せそうにない。

真剣に耳傾ける

 「足元から政治を変えよう」。ちょうど1年前、本欄はそう呼び掛けた。かすかであっても、変化の兆しが見え始めたのかもしれない。国民の疑問や不安に向き合おうとせず、説明を避ける姿勢が安倍・菅政権の8年余り続いた。しかしそれは、「聞く力」を自負する岸田文雄首相の誕生で、ようやく変わりつつあるのではないか。

 例えば、先月の臨時国会。野党議員だからといって最初から敵視するのではなく、疑問や批判、提案に真剣に耳を傾けてみる。その上で必要だと判断しさえすれば、自分たちの政策や意見でさえ柔軟に見直す…。そんな首相の姿が印象に残った。近年、あまり見られなかった対応だろう。朝令暮改とも優柔不断とも非難されたが、多くの国民は今のところ、好意的に受け入れているようだ。

民主主義の危機

 広島選出だからといって、岸田氏を身びいきするつもりはない。

 ただ、昨年9月の自民党総裁選で岸田氏が訴えた「民主主義の危機」という言葉は重いと言えよう。少なくとも、その要因が自分たちにもあるといった謙虚さをにじます姿勢は、安倍晋三元首相や菅義偉前首相にはなかった。

 「コロナ禍という国難の中で、政治と国民の心が離れてしまった」。民主主義の危機の例として、岸田氏は国民の声が政治に届いていないことを挙げていた。

 半分しか当たっていない。コロナ禍によって、政治と国民の心が離れたのではなく、コロナ禍がそれを明るみに出したにすぎない。以前から続く政治姿勢が不信を招き、増幅させてきたことを反省しない限り、信頼回復はできまい。ましてや、国民が主役となる政治の実現には程遠かろう。

 民主主義の危機はしかも、岸田氏が考えている以上に深まっている。視野を広げれば見えてくる。

 民主主義の手本とも言える米国で昨年1月、連邦議会が襲撃された。トランプ前大統領の支持者が議事堂に乱入して一時占拠、警官1人を含む5人が死亡した。歴史に汚点を残す事件となった。

 トランプ氏に代表されるポピュリストの下、専制主義に対抗する砦(とりで)だったはずの民主主義が支配のための道具と成りつつある―。政治学者の藤井達夫氏が近著「代表制民主主義はなぜ失敗したのか」(集英社新書)で指摘している。

 中国は、香港の立法会(議会)選挙を本土と同様、形だけの仕組みに変更した。市民の約6割に支持されているという民主派が徹底的に排除される中で先月行われ、親中派がほぼ全議席を得た。

 結果は中国の思惑通りだった。しかし30%そこそこの投票率は市民の示した「ノー」だろう。「高度な自治」を押しつぶし、民意置き去りの選挙に正統性はない。

熟議と参加必要

 選挙だけでは国民主権の政治が実現できないことは、昨年6月のイラン大統領選でも明らかになった。事前審査で穏健派や改革派の有力者は「失格」となり、保守強硬派が8年ぶりに政権を奪還したが、そうした現状への国民の不満は根強い。イラン革命以来、最低となった投票率や、当選者に次いで多く票を集めたのが「白票」だったことに表れている。

 選挙を軸にした代表制民主主義が機能不全に陥ったのであれば、どう立て直せばいいのか。藤井氏は、ありきたりだとしながらも、こう指摘している。じっくり議論する「熟議」と、市民の参加による改革が必要だ、と。政治家任せでは済まなくなるから、有権者の役割や労力が一層求められる。

 それを面倒だと感じるか。民主主義を充実させるコストだと考えるか。結局、私たち有権者が問われている。揺らぐ民主主義に命を吹き込み、国民主権の政治を取り戻そう。2022年は、そんな一年にしなければならない。年明けに当たって提案したい。

(2022年1月1日朝刊掲載)

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