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連載・特集

ヒロシマの空白 証しを残す 惨禍の記録 <1> 本通りの電停前

店も買い物客も消えた

 通りの両側に軒を連ねていた商店のほとんどが、がれきと化している。鉄筋コンクリートで建てられ、倒壊を免れた銀行なども壁や窓が壊され、道に人通りはほとんどない。米軍の原爆投下で壊滅した広島市内有数の繁華街、本通り商店街(現中区)の1945年11月ごろの写真だ。

 撮影したのは、元中国新聞社カメラマンの松重美人さん(2005年に92歳で死去)。被爆当日に市民の惨状を撮ったことで知られているが、その後も街の状況にカメラを向けた。本通り商店街の廃虚は、現在の広島電鉄の本通電停(当時は革屋町電停)付近から東に向かって撮った。

被爆前には160軒

 同じ場所を35年ごろに撮った写真が市公文書館に残る。書店や洋服店の看板が並び、市民でにぎわっている。戦火の激化につれて閉じる店もあったが、45年8月も約160軒が営業していたという。8月6日、その大半が跡形もなく消し去られ、商店街にいた多くの市民の命が奪われた。

 商店街の一角、帝国銀行広島支店(現広島アンデルセン)の近くにあった奥本金物店は店を営んでいた奥本八重蔵さん=当時(43)=ら家族6人が犠牲になった。学徒動員に出ていた長男博さん(91)が被爆翌日に店の跡に戻ると、がれきの下に残り火がくすぶっていたという。その後に歩いた近くの紙屋町電停付近は「焼かれて黒く腫れ上がったものすごい人数の遺体があり、それを避けながら歩く状況でした」。

平和かみしめる

 戦後、博さんは県外の親戚宅に身を寄せた後、同じ本通りの地に紳士洋品店を開いた。2001年に店を畳んだ後も本通りに住み、孫とひ孫がそれぞれ4人いる。復興し、約200店舗が並ぶ本通りで「穏やかな平和をかみしめています」。77年前の廃虚が記録された写真を前に、しみじみと話した。(水川恭輔)

    ◇

 77年前、原爆投下で壊滅した広島市中心部。リニューアルした「ヒロシマの空白」のウェブサイトで紹介している惨禍の記録の写真と、同じ場所の被爆前、現在の姿を通じて「あの日」奪われたものや復興の歩みを見つめる。

(2022年1月3日朝刊掲載)

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