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連載・特集

[ヒロシマの空白 証しを残す 惨禍の記録] 一変した日常刻む 撮影者の思い記す

壊滅前後の街 一目で■紙面未掲載写真も

 中国新聞社は3日、ウェブサイト「ヒロシマの空白 街並み再現」をリニューアルした。新たなコンテンツ「惨禍の記録」を設け、1945年8月6日の米軍の原爆投下による被害を記録した写真100枚以上を加えた。傷ついた人や破壊された建物を捉えた写真は痛ましい。決して使ってはならない核兵器の非人道性を後世に伝え続ける。(明知隼二、水川恭輔)

 下から見上げた原子雲、余燼(よじん)くすぶる市街地、全身を焼かれた人々―。「惨禍の記録」で新たに紹介する記録写真は原爆被害の実態を伝える。こうした写真の多くは、被爆し傷ついた市民たちが自らの手で残した記録だ。

 サイトではこれまで通り、地図上に見えるピンをクリックすると、その場所で撮影された写真を見ることができる。新たに追加したのがピンクの大型のピンだ。クリックすると、写真だけでなく、撮影者が写真を撮るに至った経緯やその瞬間の心情などを記述した中国新聞の連載記事が見られる。紙幅の制限で新聞では掲載できなかった写真も載せている。

 中国新聞カメラマンだった松重美人さん(2005年に92歳で死去)もその一人だ。御幸橋西詰め(現中区)で被爆直後の市民の姿を捉える歴史的な写真を残した。あまりの惨状に撮影をためらった末、涙をにじませながら撮影した。

 ほかにも、壊滅した本通り商店街を被爆翌日の7日に撮った岸田貢宜さん(1987年に71歳で死去)は、6日当日にも一帯に入っていたが、苦しむ人たちを前にシャッターを切ることができなかった。家族6人を失い、ただ一人残された野田功さん(2017年に92歳で死去)は1945年秋ごろ、廃虚と化した県産業奨励館(現原爆ドーム)を撮影した。

 サイトでは、これまでも被爆前の市民の日常などを切り取った約1200枚を紹介してきた。新設した「惨禍の記録」と照らし合わせると、被爆前後の広島の姿がより鮮明に浮かび上がる。今後も、近年新たに確認された記録写真などを幅広く紹介していく。

サイトに新コンテンツ

被爆後写した100枚以上追加

①相生橋 北勲さん

広島管区気象台(現広島地方気象台)に勤めていた故北勲さんが1945年9月下旬、現在の広島商工会議所付近から撮影した相生橋。爆風で歩道がせり上がっている。奥に本川国民学校(現本川小)が見える。北さんは、旧文部省学術研究会議の「原子爆弾災害調査研究特別委員会」による調査で市内や周辺市町を歩いた

②県産業奨励館 野田功さん

旧陸軍被服支廠(ししょう)(現南区)に勤めていた故野田功さんが1945年秋ごろに撮った県産業奨励館(現原爆ドーム)。野田さんは原爆投下で両親ときょうだい4人を失った。8月6日朝、自宅で家族と朝食を囲み、奨励館前を通って被服支廠に出勤した(野田さん提供、原爆資料館所蔵)

③福屋 新・旧館 林寿麿さん

百貨店の福屋に勤めていた故林寿麿(かずま)さんが1945年秋に撮影した福屋新館(奥左、現八丁堀本店)と旧館(手前)。いずれも爆心地から約700メートルにあり、内部が焼失した。新館は広島市の被爆建物に登録されている。旧館は戦後に取り壊された

④陸軍幼年学校 谷原好男さん

北九州市で写真店を営んでいた故谷原好男さんが撮った広島陸軍幼年学校表門跡(中央)と、倒壊した広島城の天守閣(奥右)。城近くに実家があり、父が被爆死した。同校は原爆投下で一部の建物を残して壊滅。1945年8月下旬から同年末までに撮影(谷原さん寄贈、原爆資料館所蔵)

⑤きのこ雲 深田敏夫さん

故深田敏夫さんが動員先の陸軍兵器補給廠(現広島大霞キャンパス)から撮影したきのこ雲。4枚撮ったうちの1枚で、さく裂の5~10分後とみられる。カメラ好きで被爆時にもポケットに入れていた。とっさに兵器庫2階窓から「見たこともない大爆煙」にレンズを向けた(原爆資料館提供)

⑥自宅の室内 根石福司さん

故根石福司さんが撮影した愛宕町(現東区)の自宅室内。爆心地から約2・3キロで爆風を受け、障子戸が倒れている。自宅で被爆した根石さんはこの写真を「被爆後すぐに撮った」と家族に話していた。原爆資料館は被爆当日か間もない日の撮影とみている(根石弥生さん寄贈、同館所蔵)

「資料の保存 官民横断で」 広島市立大の四條准教授

 原爆資料館(広島市中区)の元学芸員で、原爆の関連資料の保存に詳しい広島市立大広島平和研究所の四條知恵准教授に、原爆被害の記録写真を保存・活用する意義や課題を聞いた。

 ―記録写真の意義をどう考えますか。
 写真は当時の状況をイメージとして喚起する力が強く、想像力が及ばないところにまで伝えることができる。記録として重要だ。一方、訴求力があるからこそ、写った内容にばかり意識が向きやすい。被爆直後の写真は数が限られ、写真として残らなかった物事の方がはるかに多いことも忘れてはいけない。

 ―インターネットでの発信については。
 「ヒロシマの空白」のウェブサイトでは、例えば舟入地区など、同じ全焼地域でも市中心部に比べてまだ情報量が少ない。こうした空白が埋まっていけば、より意義があるだろう。

 (改変などを防ぐため)写真はデジタルデータだけではなく、フィルムなど原本の保存も重要な課題だ。長期の保存は公共機関の役割だが財源も必要。増え続ける資料への対応は、資料館などの個別施設だけでは難しくなってきている。写真、文書資料を含む被爆資料の保存へ、官民を横断したネットワークを構築すべきだ。

 ―報道機関の役割は。
 新たな視点から出来事や資料を掘り起こし、伝えることだ。発見した資料を公共の保存へとつなぐのも大切。ウェブサイトを通じ、そうした機能の強化に期待する。

(2022年1月3日朝刊掲載)

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