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連載・特集

ヒロシマの空白 証しを残す 惨禍の記録 <2> ビヤホールの大窓

壊された だんらんの場

 モダンな装いの大きな窓が吹き飛び、窓枠が折れている。現在広島パルコ本館(広島市中区)がある繁華街の一角にあり、鉄筋3階建ての内部が地下を除き全焼したキリンビヤホール。被爆から2週間後の1945年8月20日、尾木正己さん(2007年に93歳で死去)が撮影した。

 当時31歳だった尾木さんは戦時中、呉市内の呉海軍工廠(こうしょう)に勤務。米軍の原爆投下の翌日から救援隊の一員として広島市中心部に入った。

「残酷すぎて…」

 焼き尽くされた市内電車の中に折り重なった黒焦げの遺体、川辺に倒れている子ども…。「広島原爆戦災誌」(71年刊)収録の手記に当時見た惨状をつづっている。爆心地から約700メートルのビヤホールの前は「胴がはち切れそうにふくれ上がった馬の死体があった」

 長男の武彦さん(74)=広島県海田町=は「父は『残酷すぎて、人は撮れなかった』と言っていました」と話す。尾木さんが撮った原爆写真は投下当日に呉から見た原子雲1枚と、後日に市内の被害状況を収めた21枚が確認されている。

 ビヤホールが戦争と被爆の末に無残な姿と化す前、市民の憩いの場だった当時の写真も残っている。近くで理髪店を営んでいた故鈴木六郎さんのアルバムの中の1枚。ホールが開店した38年、鈴木さんが家族、親戚との食事風景を収めた。

遺骨見つからず

 写真の中央には、めいの新宅和子さんが写る。7年後の8月6日、県立広島第一高等女学校(現皆実高)1年となっていた新宅さんは市中心部の建物疎開作業に動員され、被爆後に遺骨すら見つからなかった。鈴木さんと妻子の一家6人も全員が被爆死した。倒壊を免れたホールは戦後営業を再開したが、決して取り戻せなかった家族のだんらんが写真に刻まれている。(水川恭輔)

(2022年1月4日朝刊掲載)

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