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連載・特集

ヒロシマの空白 証しを残す 惨禍の記録 <3> 元安橋と燃料会館

爆心地近く 残る建造物

 現在の本通り商店街(広島市中区)西端から平和記念公園(同)へとつながる元安橋。原爆の爆心地からはわずか130メートル。爆風により両側の欄干が落ち、残った柱の石灯籠も左右異なる方向にずれている。爆風が垂直に近い向きで襲ったためで、爆心地が橋の延長線上付近と推定する根拠にもなった。

爆風に耐えた

 写真の奥には、かつて市内有数の繁華街だった中島本町が写る。ほとんどの建物が焼け落ちる中、奥左に見える燃料会館は爆風と炎に耐えて残った。現在のレストハウスである。

 撮影したのは、市内で写真館を営んでいた岸本吉太さん(1989年に87歳で死去)。45年10~11月、中国配電(現中国電力)の依頼による被害調査の一環で撮影した。8歳の長女を亡くしながら、依頼をきっかけに再びカメラを手に取った。「100枚近く撮影した」という中の1枚だ。

 往時のにぎわいをしのばせる写真も残る。39年撮影の1枚は、欄干越しに川を眺める市民たちの姿を記録する。中折れ帽をかぶった整った身なりの男性や、軍人らしい姿も見える。背景には日用品の広告看板、燃料会館の前身の大正屋呉服店の店舗も見える。橋の照明灯は、戦時の金属供出により全て姿を消した。

わずかに名残

 元安橋は老朽化により92年に架け替えられた。まだ被爆建物の保存制度もなかった。「さしたる保存運動もなく失われたが、残っていれば爆心地に最も近い被爆建造物にもなりえた」。旧中島地区の住民の証言を記録してきた市民団体「ヒロシマ・フィールドワーク実行委員会」の中川幹朗代表(63)は、そう残念がる。

 元安橋は今、市民や観光客が行き交い、時には核兵器廃絶を訴える署名活動の場にもなっている。今も橋上に据えられた被爆石柱が、わずかに往時の名残をとどめる。(明知隼二)

(2022年1月5日朝刊掲載)

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