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連載・特集

ヒロシマの空白 証しを残す 惨禍の記録 <4> 広島文理科大本館

免れた倒壊 戦後も活用

 広島市中区の東千田町に残る鉄筋3階建てのれんが風タイル張りの被爆建物、広島大旧理学部1号館。市内で写真館を営んでいた川本俊雄さん(1968年に66歳で死去)は、周囲ががれきに覆われている45年末ごろの姿を撮影している。当時、広島県警察部の写真班員を務めており、建造物や交通機関の被害状況を撮って回っていた。

内部はほぼ全焼

 旧理学部1号館の建物は31年、広島文理科大(現広島大)本館として建設された。戦前の写真を見ると、本館のそばでテニスをする様子が写っている。同じ構内には広島高等師範学校と高師付属小(後に付属国民学校)、同付属中もあり、教育施設が集積していた。

 同大本館は戦火が激化していた45年6月、3階と2階の一部が本土決戦に備える行政機構の中国地方総監府に接収された。8月6日は爆心地から約1・4キロで被爆。建物は倒壊しなかったものの、内部はほぼ全焼した。広島大の原爆被災誌「生死の火」によると、大学や通学途中で被爆した同大の学生・教職員計66人が45年末までに亡くなった。

 周りの校舎も被害は甚大だった。広島高師付属中1年だった新井俊一郎さん(90)=南区=が被爆翌日の構内に入ると、母校の木造校舎は跡形もなかった。「ぼうぜんとしました。がれきの中に工作室の機械が首を出していた」。同中1年生は市外の農村に動員されていたが、市内に残っていた10人が犠牲になった。

移転に伴い閉鎖

 本館は49年の広島大開学で理学部1号館となった。学びやとして長く使われた後、同大の東広島市移転に伴って91年に閉鎖された。

 その後、無償譲渡を受けた市は平和研究の拠点とする方針で、広島大、市立大と各平和研究部門の移転に向けて協議を続けている。建物に刻まれた一帯の被爆の記憶を受け継ぎ、未来への平和発信に生かせるか。岐路に立っている。(水川恭輔)

(2022年1月6日朝刊掲載)

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